き坊のノート 目次

第1章:超可聴音 第2章:数について 第3章:狩猟採集 第4章:大脳 第5章:手話
大橋力『音と文明』の周辺




《第4章 大脳》



第4章   目次

11《11》大脳
11−1《11−1》大脳という臓器
11−2《11−2》聴覚
11−3《11−3》言語野
11−4《11−4》言語野(続)
11−5《11−5》普遍文法



《11−1》    ―― 大脳という臓器 ――

身体において、情報の伝達・操作をおこなう器官は神経系ホルモン系である。神経系は主としてニューロンを伝わる電気パルスを使用し、ホルモン系は血管・リンパ系を利用して化学分子を用いる。神経系はそれを2分して、中枢神経と末梢神経とする。中枢神経系に脳と脊髄が属する。脳はその形状からいくつかの部分から成り立っていることが明らかであり、大脳・小脳・延髄などがある。それぞれが更に精緻な構造体からなる。


神経系、特にそのなかの脳と、それ以外の臓器(骨格や筋肉や心臓や胃)と大きく違うことは、脳の機能はその形を見ていても一向に分からないという点である。心臓は血流を作り出すポンプであるという機能は、その形によく現れている。胃や腸が食物の消化・吸収を行う臓器であることはその形状から推し量ることができる。腎臓はどうだ、肝臓はどうだ、と追及するとだんだん怪しくなるが(機能と形状の関連が素朴な機械論的な類推では分かりにくくなってくる)、それでも、脳の形状とその機能がまるでかけ離れている程度とは、比較にならない。

人間の脳の重量は1.2〜1.4sというから、体重の2〜3%程度である(体重とは相関はない)。大脳は脳の外側を取り巻いていて、その表層の2〜3mmが灰白質といわれるところで、その内側(下層)が白質といわれる。灰白質はニューロンの細胞体部分が集まっている、白質は細胞体から長く出ている軸索の集まりである。
大脳は複雑で深いシワが多数できていて、その表面積を増やすようにできている。もちろん、そのシワのできかたは人類共通で、解剖学的に詳細な名前がつけられている(人体のすべてについてそうであるように、多少の個人差があるのは当然だが、“よく勉強するとシワが増える”などということはない)。その中でも特に深いシワ(というより割れ目)によって、大脳はいくつかの部分に分けられている。まず、一番はっきりしているのは、左・右である。大脳の左半球・右半球という言い方をする。この左半球・右半球はもともと小脳・延髄とつながっていること以外に、お互いが脳梁という無数の神経繊維の太い束でつながれている。

次図は、大脳の左半球(左脳)をその人の左側からみたもの。つまり、左が前方。シルビウス溝とか中心溝(ローランド溝)といのが、特にふかい脳の割れ目で、左半球を4つの部分に分ける境になっている。前頭葉・側頭葉・頂頭葉・後頭葉の4つである。右半球も対称的に同じ構造になっている。


シワとシワの間の盛りあがり(畝?)を「脳回 Gyrus 」といい、その一つ一つに名前がついている。 わたしたちは、ここでは「音」に関連する議論をするだけであるから、詳細は必要ないし、また、そういう準備をする余裕もない。大脳の解剖学的な詳細は、幸いに慶応大医学部船戸和哉氏の解剖学が公開されているので、そこを参照して欲しい。

脳の役割は、生体が生存し・繁栄するのに都合がよいように全身をコントロールするということに尽きる。リタ・カーター『脳と心の地図』(原書房1999 養老孟司監修・藤井留美訳)に、極くくだけた表現があったので、引用しておく。
脳が果たすべき最大の役割、それは自分が所属する有機体を生かし、繁殖させることである。その他の細かいこと――音楽に感動したり、恋いにおちたり、宇宙の統一理論を考えたり――はすべてそこから派生したものだ。脳の組み立てと働きの大部分は、食べ物をみつける、セックスする、わが身を守るといった基本的要求を満たすべく、身体の各部分を調整することに費やされているが、それも当然の話なのである。(p80)
脳は、外界と全身の状況を知るために情報を収集し、必要な各部署で分析し整理して、利用できる情報を抽出し加工する。ここまでが脳幹・間脳・感覚野・連合野の仕事である。もちろん視覚の感覚野と聴覚の感覚野は別々にあって独立に作動する必要がある。しかも、相互に「連合」することも必要である。大脳皮質の大部分は上がってきた感覚情報の処理の仕事をしており(たとえば、視覚は第1〜5次視覚野が、大脳のあちこちに分散的に配置されている)、それ以外の仕事を担っているのは、前頭葉だけである。


利用可能な形になった情報を、実際に使用するために運動野が命令情報をセットにして、神経回路を通じて、必要な筋肉へ命令を伝える。(たとえば、発声のためには舌・喉の筋肉だけでなく、肺とも協働する必要がある。しかも、それぞれの筋肉の働く時間系列がきちんと守られる必要がある。したがって、ひとつの発声命令も、多数の命令のセットとして発せられるのが合理的である。
上図の、「一次運動野」、「高次運動野」の概念的な説明を、丹治順「脳の“操縦士”はどこにいる」(井原康夫編著『脳はどこまでわかったか』朝日新聞社2005)から借用する。
外界と身体の情報は、視覚・聴覚・体性感覚・内臓感覚などの感覚系を介して脳に取り入れられ、大脳に集約されます。そのようなバラバラの情報を知覚として認知し、意昧づけるのが、前にもふれた「連合野」の働きです。動作を始めるときには、「頭頂葉」「側頭葉」などの連合野でとりまとめられた情報が不可欠です。ところが、連合野は1次運動野と直接つながっていないので、1次運動野に情報を人力することができません。頭頂・側頭葉の情報は、いったん高次運動野に送られ、処理されて、そこから1次運動野へ送られる必要があるのです。
もう1つの役割は運動の「企画、構成、準備」をすることです。
たとえば「手を伸ばす」運動によって「見つけたものをつかむ」目的を果たすには、状況に適応してどのような動作をしたらよいのかを「企画」し、どの筋肉をどんなふうに組み合わせるのか、動作の内容を「構成」し、「準備」する過程を欠かすことができません。さらにいつ、どの位置まで手を仲ばしたらよいのか、というような動作の時間的・空間的パターンを決めたり、複数の運動を順序よく組み合わせたりすることも必要です。このような作業は、主に高次運動野の働きがあって、はじめて可能になります。(p126)
小脳は脳幹にあるが、筋肉運動(随意運動)のスムーズな達成を図るのが主たる機能である。脳幹の最下部(脊髄寄り)が延髄で、呼吸や血液循環をあつかっており、ここの傷害はただちに生命維持にかかわる。間脳にある視床は大脳皮質への情報の出入りをコントロールする。視床下部は自律神経やホルモン分泌を制御する。
すなわち、大脳は外界・身体からの情報を「意識的運動」として出力する(獲物を見て、そちらへ手を伸ばす、というような)ための情報処理装置であり、不随意運動の多くは情報が上がってきても、視床の手前で処理される。大脳までは直接には情報が上がらないで、自動処理している。そのための多様なモジュール類が脊髄と大脳の間に置かれている(「核」とか「体」とか呼ばれる)。



図は、瀬川茂子「脳はどこまでわかったか」井原康夫編著同名書p23 を原図としています。



脳神経系の全体についていえることだが、ニューロンとグリア細胞(ニューロン以外の細胞をこのように呼んできた。“グリア”はラテン語の“糊”の意味)からできていて、マクロな目で見ているかぎり比較的単調な構成である。そこは極めて多数のニューロンとグリア細胞というミクロな部品が緊密に集合している。グリア細胞の個数はニューロンの数倍とも数十倍ともいわれる。大脳皮質のニューロンが百〜数百億個と言われるから、ニューロンとグリア細胞を合わせると、大脳は兆を持って数える個数の細胞から構成されていることになる(神経系全体のニューロンの個数は、1000億個といわれる)。
グリア細胞は、いくつかの種類に分類されているようだが、はじめはニューロンが大脳の主役でグリア(糊、膠)はニューロンがきちんと形を整えて位置しているように、支えている骨組の役目であると考えられていた。だが、近年は(21世紀に入ってから)グリア細胞がニューロンのシナップスの結合をコントロールしている、という研究が相次ぎ、グリア細胞は学習や記憶などの大脳の高次機能の主役を果たしているのではないかという見解が出されている。

ニューロン(神経細胞)の種類そのものが多種・多様である。
神経細胞には、形や働きの異なる多種多様なものが含まれます。たとえば、大脳の中だけでも、「錐体細胞」「シャンデリア細胞」「有棘星状細胞 ゆうきょくせいじょう」「無棘星状細胞」「バスケット細胞」など、形や大きさの違うニューロンがあります。形だけではありません。機能をとってみても、興奮性の伝達を行うニューロンと抑制性の伝達を行うニューロンのように、異なるものが多数存在します。(桝正幸「発生から見た神経回路のでき方」『脳はどこまでわかったか』朝日新聞社2005 p258)
多数の、しかも多種多様なニューロンが、軸索と呼ばれる長い突起を伸ばしあって、シナップスという結合部分を造って互いに情報のやり取りをする。そこに膨大な数のネットワークができている。つまり、そこには秩序だったふたつの複雑なコントロールが必要である。ひとつは、多種多様なニューロンが、特定の場所に秩序だってできていること。特定の性質をもつ細胞となることを「分化」というが、大脳内の特定の空間的位置で特定の分化を果たしたニューロンの配置が必要である。そのうえで、特定のニューロン同士が軸索を伸ばしあって相手の伸ばす軸索を探り当ててシナップスを作るという想像しがたいほどの複雑さである。
分化したニューロンはすぐに「軸索」と呼ばれる長い細胞突起を伸ばしはじめます。この突起は、あたかも決まった通り道があるかのように、おのおのの定められた経路を通って、標的となるニューロンへ向かって伸びていきます。この過程は「軸索ガイダンス」と呼ばれています。標的ニューロンをみつけた軸索の先端部はシナプスに変化し、情報を伝達する役割を果たせる機能的な結合ができあがります。
ここまでの過程は、生まれる前の母親の胎内で、主に遺伝的なプログラムに従って進行すると考えられています。胎児の段階で、神経系はほぼ完成するのです。(桝正幸、同前p261)
ニューロンは細胞体から長い神経繊維を延ばして、その先端でシナップスをつくって、別のニューロンと結合する。神経繊維は電気信号が“パルス”で伝わるが、シナップスでは化学物質が体液中を移動して信号を伝える。そういう面白い仕組みになっている(神経繊維のなかを伝わるパルスは、生体電気信号であり、金属中を伝導する電気とは質が違う。伝導速度も秒速数mで、生物現象である)。

大脳皮質はわずか3mmほどの厚み(灰白質)であり、そこにニューロンとグリア細胞が密集しているという、比較的単調な構成である。そこから神経繊維を延ばしている下層が白質部である。前に述べたように、その形態からは機能がまったく推察できないのである。分かっていることは、これらの兆をもって数えるニューロンとグリア細胞が相互に情報的に結びついて、ネットを形成しているということである。
肉眼で観察するかぎり、大脳皮質は比較的単調で一様なものなのである。だが顕微鏡的なレベルでは、多様で目もくらむような膨大さと複雑さを含んでいる精緻きわまりない生体組織なのである。

19世紀前半までは、脳の“機能局在”説は信じられず、むしろ“機能偏在”が主流であった。三上章允[あきちか]の『脳はどこまでわかったか』(講談社現代新書1991)を引用しておく。
19世紀前半に活躍したフローレンスは、イヌやハトの大脳の刺激や破壊を行って、大脳には機能局在はないという結論を出し、当時の脳性理学の主流となった。彼によれば、大脳を前からであれ、後ろからであれ、十分広く破壊しても特定の機能が失われることはない。広範な切除を行えば、その切除の大きさに応じてすべての機能が徐々に弱まるのみである。(同書p105)
こうした考え方に反対したのがジャン・バウイラウドで、機能局在説を主張したが適切な証拠を提出できなかった。「ブローカ野」の発見(1861)で有名なポール・ブローカはバウイラウドの学生だった。


《11−2》    ―― 聴覚 ――
第4章 目次


音波は空気振動(圧力波、縦波)として鼓膜−内耳に入る。そこで電気振動に変換されて聴覚の神経繊維を伝わって脳へはいる。鼓膜を経由せず、“骨振動”が直接電気振動に変換されるというもう一つの回路も存在している。これは、自分の発語を常に自分でモニターしているという重要な役割を果たしている(よく知られていることだが、これが聾唖者の必然を意味している。つまり、生まれながら聴覚をもたないと、自分の発語をモニターできないので、話すことができない。ただし、最近は補聴器の進歩などで発話訓練が可能となり、「聾者」と言うことが多い)。
電気信号に変わった音波は、左・右の大脳の“ヘシュル回”という側頭葉の一部に達し、そこで〈音〉が認識されると考えられている(こういう風に言っても、何かが解決したわけではないが、ともかく、ヘシュル回のある部分が、音の神経繊維のある意味の“終点”であるというのである)。この部位は聴覚一次領域と呼ばれる。
この聴覚第一次領域は、左右の脳にあって、右耳・左耳からの音情報をここで音としてとらえているのである。ただし、ちょっと厄介であるが、右耳の聴いた音情報は交叉して左脳の聴覚第一次領域へ行くが、それがすべてではなく、一部は、右脳の聴覚第一次領域へも行く。左耳からの情報についても同様である。これは、音の立体感ないし音源定位などの能力と関係があるのかもしれない、とわたしは想像している。
次の図は、大脳を輪切りにして上からみた図である。側頭葉の前よりの位置にヘシュル回という部位があることがわかる。左右の脳半球について、大体似たような位置にあるのだが、左右で様子がだいぶ違っているらしいことも分かる。斜線がほどこされている側頭平面という場所については、次節の「言語野」で述べることになる。


これが聴覚であるが、健常な場合は、左・右に感度や能力の違いはない。
以上は、最も簡単に音情報が「聴覚第一次領域」へ到達する道筋を述べたものだが、実際には、その道筋だけで、非常に複雑で周到な処理手順を踏んでいるようである。まず、内耳の「蝸牛」という精妙な器官で音の力学的振動が電気振動(パルス)に変換されるのだが、そこでは音の周波数ごとに異なった検出細胞(有毛細胞)が働き、聴覚神経路も周波数ごとに別々に用意されている。多帯域の並列処理装置ということになる。音の高低だけでなく、位相も検出しているという。
内耳から聴覚第一次領域へ至る間に、何次かのシナップスを通過してニューロンの切り換えがあり、しかも、脳幹にあるいくつもの多段階の処理モジュールを通過する。

蝸牛神経 ⇒ 蝸牛神経核 ⇒ 上オリーブ核 ⇒ 下丘 ⇒ 膝状体 ⇒ 聴覚第一次領域



上図は、「錯覚とはなにか」という面白いサイトの「聴覚のしくみ」の「脳幹神経系」というところから、拝借しました。(「錯視」はよく知られていますが、聴覚の意図的錯覚である「空耳 そらみみ」はわたしはこのサイトではじめて認識しました。ここ

わたしたちは〈音〉を「音圧」として聴いているわけではない。大きさ・高低・音色・リズムなどのさまざまな要素を聴いている。おそらく、うえのいくつもの「核」や「体」の処理モジュールは、そのような〈音の要素〉の解析に関係するような処理を行っているのであろう。
わたしたちが〈音〉を体験する際に、視覚や触覚など他の感覚と違う特徴ある点は、
  1. :時間の流れと共に聴こえ、聴こえ過ぎてゆくこと。
  2. :同時にいくつもの音源からの音を聴くのが普通で、音の定位・広がり・動きなどが問題となる。
  3. :音は拒否できない。覚醒している限り、音は聴こえる。
などを挙げることができるだろう。
脳幹に位置している「核」や「体」の処理モジュールが行う“前処理”は、時間の流れの中で、色々な方向から・遠近をともなって、いくつもの音源からの音波が同時に聴覚神経系へ流れこんでくる音情報を、音源ごとに分離して〈音〉として認識すべく、整理し・カテゴライズし・必要不用の評価付けもして、聴覚第一次領域へ送りこむのであろう。

“前処理”の済んだ音情報が、聴覚第一次領域に受け取られる。そのあと、大脳内部で“本処理”されて、わたしたちの〈意識〉が〈音〉として認識するのであろう。それがどのようになされるのかは、未解明の領域にまたがる非常にむずかしい問題であろうと思う。しかし、その過程が高次の〈記憶〉や〈情動〉と連関することは、日常的に体験していることで、間違いないところだ。雑音混じりの電話からの声をわずかに耳にしただけで、電話の主の顔や気配を思い出し、感情が湧き出してくるのは普通のことだ。
その高次処理のなかで人間に特有の重要なものが、言語である。その問題については、次節で扱う。言語は聴覚だけの次元のことではなく、〈社会的〉なものであり、同一母語を持つ人々が民族を形成するという意味で〈民族的〉なものであるといってもよいであろう(母語を安易に「母国語」と言っている論者があるのは困ったものだ)。つまり、高次処理の中で“人間に特有なもの”というその意味は、人類独特の高度な〈生理的〉ないし〈遺伝的〉な問題というだけではなく、〈社会的〉な次元における問題であるというのである。

十分認識しておくべきことは、本節まで扱ってきた「聴覚」は本質的には〈生理的〉な次元の問題であって、脊椎動物とまでいわずとも哺乳類に通有の問題なのである。つまり、ヒトも犬・猫もおなじ論理で扱ってかまわないというレベルの問題なのである。音波(音響)を、空気媒質を伝わってくる環境からの情報とみて、取り込み分析し整理して必要な情報をとらえる。必要な情報は記憶へまわされる。〈意識〉があろうとなかろうと休みなく四六時中継続される。


《11−3》    ―― 言語野 ――
第4章 目次


大脳が左半球と右半球のふたつの部分からできていることは古くから知られていたが、人体の左右対称の原則が脳にも適用される例と考えられていた。つまり、解剖学的には左右の半球は対称であるとされていたのである。前節(11-2)の図に「側頭平面」という解剖学的な個所が左右でだいぶ大きさに違いがあることが示されているが、これは、なんと1968年のゲシュウィンドらの論文によるのである。
この部分は、大橋力『音と文明』から引用してみる。
ところが、1968年、神経学者ノーマン・ゲシュウィンドとウォルター・レヴィッキーは、解剖所見に基づいて、人類の大脳半球の一部(側頭平面)に明らかな左右の非対称性が認められることをScience誌上に報告し、大きな波紋を呼んだ。当時、脳半球の構造的左右非対称性を支持する解剖学的所見はないものとされていた。それに対してゲシュウィンドらは、100例の成人の病変をもたない死後脳について精密な計測を行い、この定説を覆す結果を導いた。特に注目すべき所見として、側頭平面の外縁の長さの平均値が右に較べて左の方が3分の1ほども長いことを示した。(p167)
ただ、研究者らが鈍感で気がつかなかったということではなく、左右脳半球の解剖学的な差違について知られてはいたが、それを重視してきちんと研究する視点が用意されなかった、ということのようである。
ただ、この「左右脳半球の解剖学的な差違」に関しては異論もあり、確定しているとは言えないようである。たとえば、酒井邦嘉『言語の脳科学』(中公新書2002)の(p176〜)は「言語の大脳半球優位性」をまとめて論じていて、参考になるが、その中で、
死後の剖検によって人間の脳を調べたゲシュビントらの研究は、左脳のウェルニッケ野の外側面の長さが、右脳の対応する領域よりも長いことを明らかにした。従って、脳の構造的な違いが、大脳半球優位性の基礎になっていると考えられてきた。この差は「肉眼でも容易に見られる」と言われている一方で、実際の脳の形は個人差が大きいので、話はそれほど単純ではない。(中略)

右利きの五十人を対象にした、最近のもっとも信頼の置ける測定によれば、側頭平面の面積と体積の両方とも、左右差がなかったという。この違いは、側頭平面の後方にはっきりと境界の基準になるような脳溝(しわ)がないことが原因なのだ。
と述べている。
左右脳半球の働きに左右の差があることは間違いないが、それが両半球の解剖学的な差に反映されているのかどうか、更に、解剖学的な大小が機能の優劣を結果していると考えてよいのかどうか、などは不明であるとすべきだろう。個々のケースで、この結論を支持する場合もあるが、支持しない場合もあるということ。

左右脳半球の機能的な差違については、すでに1836年に「左脳の損傷と言語障害が関連している」という指摘がなされているという(大橋前掲書p169)。そして、有名なポール・ブローカによる「ブローカ野」の発見が1861年である。(「タン、タン」としか発語できない男性が若い頃から患者としてブローカ医師の病院に来ていた。その患者は中年になり右半身マヒが出て寝たきりになった。さらに病状が悪化して1861年に入院した。“タン氏”は語の理解はできるが発語が困難と診断され、「運動性失語」と言われる。死亡後、解剖して「ブローカ野」と呼ばれるようになる部位に、脳梗塞の病変をみつけた。
“タン氏”は発語できないが知性や言語理解は問題がなかったので、発語障害が主たる症状と考えられた。そして「運動性失語」とされる。したがって、左前頭葉の「ブローカ野」には“言葉を発する”機能があると考えられた。

カール・ウェルニッケが違うタイプの失語症の患者を扱い、同じく左脳の側頭葉のある部位に病変をみつけた。1881年のことである。その患者は、多弁によく発語するのだが、意味ある話になっていない。言葉の意味内容の理解が阻害されていると考えられ、「感覚性失語」とか「受容性失語」呼ばれる。該当する病変の個所を「ウェルニッケ野」と呼ぶ。

上の「失語症」や「ブローカ野」・「ウェルニッケ野」の説明は、ごくごく便宜的な大ざっぱなものである。要点は、19世紀後半になって、左脳に言語機能に関連する個所がある程度局在しているらしい、ということが知られてきたということである。しかし、大脳には灰白質と白質があるのみで、脳回(脳の“シワの畝々”のこと、詳細に調査され名前がついている)のどの位置に病変があった人にどういう症状が出ていた、という治療体験をつみかさねて、少しずつ、“脳の機能”を推定しているに過ぎないのである。
しかし、そうであっても、左脳に言語を扱う機能が集中している、ということは否定できない。それを分かりやすく“言語野”といったり“言語中枢”といったりしているのだが、万人共通にそう指摘できる脳の特定部位が存在している、ということではない(9割以上の人が左脳に言語野があるが、残りの人は右脳ないし両方にまたがって存在している、という。特に断らない限り、この多数派のケースを考えている)。

脳機能の局在論も、行き過ぎるとおかしなことになる。“左脳は言語脳、右脳は音楽脳”といったりして右脳開発を売り物にした教育プログラムが出現したりする。
脳機能は、ニューロンの塊である脳に、ソフトウエアとして実現している機能なのであって、ハードウエアとして局在的にモジュールが組み込まれていることによって実現しているというものではない(これは原則論である。おそらくハード的に実現している基底的な機能もあるであろう)。脳機能はきわめて柔軟性に富み、ある機能を他の個所で代替したりすることが可能である。また、ある機能の実現にいくつもの多数の部位が関連していて、ある部位Aの損傷によって、ある機能Pが阻害された、という事実から機能Pを担うのが部位Aである、と直結できないのである。

山鳥重[やまどり あつし]は1939年生れの神経心理学の医師で研究者、神戸大→東北大→神戸学院大(現在)。失語症などの脳機能障害の患者の臨床に長い間たずさわってきた学者で、慎重で丁寧な文章による著書に、わたしはお世話になってきた。辻幸夫がインタビューしている本から「ブローカ野」とか「ウェルニッケ野」というのは機能領域であって、解剖学的領域ではないことを力説しているところを、引用してみる。
山鳥 そうですね。簡単に言語機能の大脳各領域での分担についてまとめてみましょうか。何度も話題になりましたが、まずブローカ野ですね。ブローカ野は多数の病巣研究に基づいて左前頭葉下前頭回後方のあたりに定位されています。ウェルニッケ野は左側頭葉上側頭回後方のあたりに定位されています。ブローカ野は言語表出に重要とされる機能領域で、ウェルニッケ野は言語受容に重要とされる機能領域ですね。
ここで繰り返して強調しておきますが、ブローカ野もウェルニッケ野もどちらも機能領域であって、解剖学的領域ではないということですね。ですから、実際にはブローカ野とかウェルニッケ野とかいう固定した領域はどこにも存在しないのです。解剖的に存在するのはブローカ野ではなくて左前頭葉下前頭回後方領域であり、ウェルニツケ野ではなくて左側頭葉上側領回後方領域なんですね。あくまで、多数例の経験に基づく概念的な領域です。
具体的に、たとえば、(辻)先生のウェルニツケ領域と私(山鳥)のウェルニツケ領域はその位置や範囲が大きくずれている可能性があります。最近の研究者たちの共通認識に近いものをまとめますと、図に示したようなものになります。
音声言語の表出能力はブローカ野の働きに依存し、音声言語の受容・理解能力はウェルニツケ野の働きに依存します。さらにブローカ野の後方に接する中心前回の下方領域は、音声の心理的表象、言語学的には音韻ですよね、音韻を実際の構音運動に変換するために必要な運動神経情報を作り出す領域です。その後方に「配列」と書き込んだ領域がありますが、ここは頭頂葉の縁状回というところです。私はこの領域は音韻群を系列化するのに重要な領域だと考えています。この領域がうまく機能しないと、語やセンテンスの安定した音韻心像は想起できないのですね。この図は本当の骨組みだけを示したものですが、もっと細かい機能地図がどんどん提唱されています。(p68〜69)『心とことばの脳科学』(大修館書店2006)
脳回を使って部位を表現しているのは、解剖学的領域であって、人類においては位相的に確定し一致している部位である。それに対して機能領域といっているのはソフトウエアの組み込まれているニューロンの在り場所であり、個々の人によって違いがある(位相的にも違う)、というのである。

ちょっと脱線するが、こういう人体の解剖学的な場面で「位相幾何学的」に同じだ、というような、きわめて適切な形容詞を使っている例を知ったのは、アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳』(講談社2000 田中三彦訳)(原題 Descartes' Error:Emotion,Reason,and the Human Brain 「デカルトの誤り:情動、理性、人間の脳」)でだった。この本は、山鳥重が推奨しているので読んだ。すくなくとも、この本の前半3分の1は、並の推理小説よりは面白い。

たとえば、人の顔の造作は、その材料(目、口、鼻など)はみな同一で配置も同じ、しかしその造形や配置が少々異なることで個々人が違った顔付きになっている。つまり位相=トポロジーとしては同じ、というのである。
神経解剖学によって脳の各要素間の位相幾何学的関係はおそろしいほどよくわかっているが、それでも局所解剖学的個人差はかなりあり、だからわれわれの脳一つひとつは車とはくらべものにならないほど変化に富んでいる。その端的な例は、人間の顔に見られる同一性と差異というパラドックスである。顔には不変の要素数、不変の空間的配置がある(要素間の位相幾何学的関係はすべての人間において同一である)。にもかかわらず、顔かたちがかぎりなく多様で一人ひとり識別できるのは、大きさ、輪郭、不変の部品配置が解剖学的にわずかにちがう(厳密な局所解剖構造が顔によって異なっている)からである。(p67)
「メルクマニュアル 第17版」がWeb公開されているので、それを参照しておく(ホーム)。「言語領域」があちこちにひろく分布していることがわかる。
失語症を診断するための種々の公式なテスト(例,ボストン失語症診断)が使われる。しかし,通常はベッドサイドの交流で十分である。非流暢性の、言葉が出ず口ごもる発語(ブローカ失語症)は,前頭葉障害を暗示する。ウェルニッケ失語症は,後外側の左側頭部領域および下頭頂言語領域の異常を示唆する。名称失語は,後側頭頭頂の異常または変性を示す。聞こえた言葉をただ自然発生的に繰り返すことは出来るウェルニッケに似た失語症は,前頭葉と側頭葉の言語領域を結合する経路の断絶に起因する。 (失語症の診断


「ブローカ野」の確定の症例となった“タン氏”の実際の脳の損傷個所は、現在認められている「ブローカ野」とすこしずれているという。また、「ブローカ野」の確定に使われた脳(“タン氏”以外の人の脳)の現物がアルコール浸けで保存されているのだそうだ。それを、改めてMRI検査したところ、「ブローカ野」よりも広く損傷されていたという(ここ)。つまり、「ブローカ野」についても、その概念が一人歩きして、固定化して拡大解釈されるということが起こっている。(「ブローカ失語=運動性失語」に関しても、再検討が加えられている。ブローカ失語は簡単に言えば、唇や舌がうまく動かせないために起こる運動性の失語だと考えられてきた。だが、発語の運動性の機能をほんとうに担っているのは、「島皮質」というブローカ野に隠れて直接は見えない、より中側の部位ではないかという。そしてブローカ野が担当しているのは言語の「文法的分野」ではないか、という説がある(酒井邦嘉『言語の脳科学』p240)。

大脳の「機能地図」が可能である。ことに、「体性感覚」や「五感」の入口(第1次感覚野)や、体性感覚の出口(第1次運動野)については、詳細な地図が作られている。「体性」部位が大脳皮質に連続的に並んでいることを、大脳表面に直接電気刺激を加えて確かめたのが、カナダのペンフィールドらである(1950)。皮質受容部の面積に比例して人体部位の大きさを変形した「ホムンクルス 小人」図はよく知られている。


上図は、三上章允「脳の世界」という優れたサイトの脳内のこびとから拝借しました。なお、図では性器が省略されているが、大脳皮質の「足」に続く空白部(左図の左端)が全部性器に割りあてられ、ホムンクルスで表現すれば彼の手よりすこし小さめの大きさになる。
また、口・舌・咽喉が大きいことは、言語機能の実現と深く関係している。


注意すべきは、大脳の「機能地図」が大脳全域で可能になるとはいえない、ということである。低次機能は“単機能”的なモジュールが実現していてハードが局在しているとしても、「高次連合野」や「高次運動野」は必ずしも機能が局在しているとは言えないからである。
大脳の機能が「局在」しているといっても、その局在個所を破損すればその機能が失われるということ、逆に、その個所に電気刺激を加えれば機能が反応するというにすぎない。その個所にその機能をもった部品(モジュール)がはめ込まれているように固定的に考えると、おそらく誤ることになる。

山鳥重の対談を引用したが、「ブローカ野」とか「ウェルニッケ野」のような高次な言語機能を担っている個所が、個々人の大脳の中に実現するのは、脳回のどの位置に・どのような広がりを持っているか、個人差があること。極端な場合は、左脳ではなく右脳に実現することもあること。機能概念であって解剖学的な概念ではないことを承知しておくことが重要である。



《11−4》    ―― 言語野 (続) ――
第4章 目次


「ブローカ野」は言語の「運動性機能」を実現すると考えられている。構音・構文などの指示を発する発語・発話の機能を担う領域である。それに対して「ウェルニッケ野」は「感覚性機能」といわれ、語の意味や文章の理解を担う領域であるといわれる。そして、上ですでに述べたように、これらは「機能的領域」であって「解剖学的領域」ではない。(ブローカ野は通常言われている「左前頭葉下前頭回後方のあたり」(山鳥)ではなく、その内側の「島皮質」が担っているという異説もある。)もちろん、言語に関係する領域がこれだけだというわけではない。9割以上の人の場合、左脳のかなり広い領域に言語に関連する領域が広がっている。「言語野」とか「言語領域」といわれている。そこに「言語中枢」があるような表現をとる場合もあるが、あくまでもそれは比喩であって、自立的な言語モジュールが大脳のある個所にはめ込まれているということではない。

前節の「メルクマニュアル」からの引用でも、「言語領域」と呼ばれている部分が何ヵ所かあった。ただし、すべて左脳半球である。それゆえ、大脳左半球を「言語脳」といったりすることがある。それなら、右半球損傷の場合には言葉についてのダメージはまったくないのであろうか。
右半球の損傷の場合、「非言語コミュニケーション」の能力低下が生じるといわれている。「非言語コミュニケーション」とは、表情・身ぶり手ぶり・情動をこめた話しぶり(プロソディ)などのことであるが、実際の生活場面では重要である。「目は口ほどにものを言い」の世界である。
山鳥重の『ヒトはなぜことばを使えるか』(講談社1998)から、右半球が「非言語コミュニケーション」で重要な役割を果たすことを述べているところを、引用する。
言語は、左右大脳半球のうち、どちらかの半球で主として処理生成される。この半球が言語優位半球である。一般的に言えば言語優位半球は左であることが多い。そしてことばの実状況での運用には、非言語優位半球(だいたいは右半球)が深く関与するのである。
右半球も神経構造的には左半球とまったく変わらない。しかし、その働きは、左とはかなり異なっている。左半球は言語に優れているが、右半球は視覚的な情報処理(ヒトの顔の特徴を一瞬に見分けるなど)、視空間的な情報処理(対象の空間配置などを判断する、図形を描くなど)、注意の空間配分(自己の左右にまんべんなく注意を払う)、相手の情動状態の理解(あいつ怒ってるな、という判断)などに優れている。
簡単に言うと、左半球は言語や数処理を得意とし、右半球は自己周囲の状況理解を得意とする。あるいは左半球はシンボル処理に優れ、右半球はシンボル処理を可能にするための条件整備に優れているともいえる。実際、右半球が広く損傷されると、言語に支障は出ない(失語症にはならない)が、自己の置かれている状況や自己のまわりの状況についての総合的な判断力に、いろいろな支障が起こる。
たとえば、プロソディ障害、多弁、言語性病態無認知など、いわゆる非失語性の言語症状は、すべて右半球損傷でみられる異常である。また、言語の文字通りの意味(形式的意味)は理解していても、実状況とのかかわりの中でしかとらえられないことばの生きた意味(ユーモアや皮肉や比喩など)は、右半球が損傷されると理解できにくくなる。
一方で、左半球広範損傷による重篤な失語症のために、言語的なコミュニケーション能力が廃絶してしまったようにみえる患者が、家族、医師、看護婦、リハビリのスタッフなどとの交流においては驚くほどよく状況を理解したり、感情の疎通もうまくいったりすることがある。自分が今どのような状況に置かれているのかという、実社会でもっとも重要な判断力は、右半球が機能している場合、しっかりと保存されるようなのである。
右半球は、このようにことばを「現場」で生かすのに無視できない役割を担っている。(p132〜135)
大脳左半球が言語優位であるというのは、失語症検査のような言語機能をできるだけ細分化して答えさせる・反応を見るというような場合に、そういう機能を左半球が担っていることが分かるという意味である。(失語症検査では、意識的に日常的には出合わないような形で機能を検査するような工夫がされている。
しかし、われわれが実生活上で言葉をつかっている場面では、表情・身ぶり・タイミングがあり、その場面にあった抑揚・速さで話をしている。そういう、総合的な《場面への適合》が積極的におこなえる、ということがないと、実生活上での言葉を使うコミュニケーションはうまくいかない。大脳両半球というだけでなく、脳脊髄神経系全体が統合し・調和してはじめて《場面への適合》が完成する。つまり、「非言語コミュニケーション」というような概念は一定の抽象的な仮定(たとえば、学問上の仮定の水準など)の上で使用されているのであり、「言語コミュニケーション」と「非言語コミュニケーション」は互いに背反するカテゴリーであるというのは形式論であって、両者があいまってはじめてコミュニケーションが実存する。
逆からいうと、われわれの大脳神経系は、われわれが実際に直面する《場面》の総合性にふさわしく、大脳神経系が総合的に全体性を得るように精妙に結合しあい、柔軟性を持って《場面》に対応できるように、つねに内部的に総合化を図っている。

「音韻」について、考えてみたい。「音素」のことである。
通常音素は // で挾んで示すことになっている。たとえば、日本語の音素は、
母音=/a/ /i/ /u/ /e/ /o/
子音=/k/ /s/ /t/ /n/ /h/ /m/ /j/ /r/ /w/ /g/ /z/ /d/ /b/ /p/
とされている。これらの日本語の「音素」の定義・分析が正しいのかどうかは、わたしはよく分からない(引用はウィキペディアから)。ただ、重要な点は、わたしたちは言語を聴く場合、音韻を聴いているのである。けして音声そのものを聴いているのではないのである。おそらく、これは言語野がそのような機能をもっているからなのである。言語野に組み込まれたソフトウエアの自動的な働きである。

日本人は外国語会話の能力が低いこと、/l/・/r/ の区別ができないことは世界的に有名である。われわれは音声として、/l/・/r/ を聴いていることは間違いないが、それを言語の構成要素として分析する段階で、音声を音韻(音素)にカテゴリー化するのである。
つまり、ある音声を耳にする場合に、ヒトもイヌもニワトリも同じように物理的音波として耳に(鼓膜に)達する。ヒトの場合は、それがいずれかの段階で脳内に組み込まれたソフトウエアによって分析され解釈されて、入力した物理的音波が言葉であると判定されると音韻としてカテゴライズされるのである。これは、一種のデジタル化といってよいと思う。これが、脳内の言語解析の第1歩である。
わたしたち日本人は、/l/・/r/ の音素を認識することがもともとできないので、音声として耳に入ってきても、音韻としてカテゴライズされる段階で(これがどの部位で行われるのかは分からないが、言語野のいずれかの個所で)無視され、日本人式の /r/ に統一されたりするのであろう。

もちろん、ここで「日本人」といっているのは「日本語を母語とする」という意味である。ヒトは胎児の段階から幼少期のいずれかの段階までに、母語を身につける。
母語を身につけるといっても、音韻を聞き分けること・単語を発語できること・文が構成できることなどさまざまな段階がある。つぎに紹介するのは「乳児が示す母音の識別能力」である。生後間もない乳児()、生後6ヵ月後()、生後1年()について、スウェーデン語・英語・日本語の環境で育つ場合に、母音の聞き分けがどのように身についていくかを示している。


母音を周波数分解してみると、いくつもの「周波数成分」の重ね合わせになっていることが分かる。その周波数の最も低い成分を第1フォルマントといい、その2番目に低い成分を第2フォルマントという。ヒトが母音を聞き分ける際には、この第1,第2フォルマントのふたつだけで母音が決定されていて、より周波数の高い成分は(母音の聞き分けに関しては)使われていない。それゆえに、上図で母音を表現するのに、横軸を第1フォルマントの周波数、縦軸を第2フォルマントの周波数にしているのである。
):生後間もなくの新生児は、世界のさまざまな言語で用いられている母音(13種類)を聞き分けることができる。図中の線は各母音の境界線を表している。
):生後6ヵ月。乳児は耳から聞く母音を印象に留めつつ、脳内に記憶していく。図の黒斑は記憶された母音を模式的に表している。あいまいな母音を耳にしたときには、それに一番近い黒斑に引き寄せて認識する。これを学者は「マグネット効果」と言っている。
):生後12ヵ月ぐらいで、乳児は新生児の頃の識別能力を失って新たに自分の学習した母音に特化した識別能力を身につける。母音同士の境界が確定し、マグネット効果の及ぶ範囲が決まる。
日本語を聞いて育つ乳児は、1年ほどで、日本語の/a/ /i/ /u/ /e/ /o/に特化した言語処理を獲得した脳を持つのである。(酒井邦嘉『言語の脳科学』p283〜285 上図もそこから拝借しました)
この「乳児が示す母音の識別能力」は、ヒトの脳が生得的に持っている能力のほかに、生後に学習によって身につけて特化した能力とがあることを鮮やかに示している。しかも、それは単に単語や文法的能力を“データ蓄積(記憶)”していくというのではなく、ソフトウエアとしての脳の構造を作りかえ環境適応を図っているということである。

言葉が耳からはいると、音韻としてカテゴライズされた音列が脳内にとりこまれ、同時にそれが構文解析・意味解析に廻される。「廻される」とはいうが、現実に脳内でどのようなニューロンのネットワークを経て、解析され、その結果がどのような所へ伝達され、保存され、また別の記憶の喚起や連想とつながるのか。複雑な処理手続きと連想がニューロンのネットワークのなかで、波紋をつくり広がり、はね返ってくる。
このように、音響(物理的波動エネルギーの時間的流れ)が第1次聴覚野で受けとめられ、そのあとさらにカテゴライズされ・伝達され・保存され・別の記憶の喚起や連想の多様なチャンネルに入っていく。この2次的な過程を脳科学では一般に《連合》という。すなわち、連合野に進んで、総合的な文脈での理解が可能になり、総合化が完成する。同時に、発語の意欲が「意識」において生まれ、「運動的言語野」への指示が発せられる。

発語のためには、発話の語順や文法にかなった構文構成が準備されつつ、同時に発生機構の複雑で多様な筋肉組織への命令が多段階の秩序を持ちながら出動を用意されていく(おそらく、発語のソフトウエアの小単位はある程度パターンとして用意されているであろう。脳科学では「パターン・ジェネレータ」という概念があるようだ。)。この多岐にわたる命令の時間系列が、整然と秩序正しく行われないと、簡単な発語さえできない。どのような発語をするかという脳の「企画」に従って、呼気のタイミング・咽喉、声帯、舌や口腔や口唇の態勢、それらが互いに協働しつつ一斉に働くことが必要であって、このどれかに軽いつまずきがあるだけで、発語−発話はうまくいかない。


《11−5》    ―― 普遍文法 ――
第4章 目次


前節の終わりで示した「乳児が示す母音の識別能力」が意味している事実は衝撃的である。生まれ落ちたときには13種の母音識別が可能であるのに、生後1年間ほどの間に乳児が耳にする母音の種類によって、識別能力がそれぞれの母語の特性に特化するべく編成替えされる、というのである。スエーデン語は13種のまま、英語は8種、日本語は5種と、乳児が耳にする母音によって聴覚の感覚野に編成替えが行われる。これはおそらく、ニューロンのつけ替えとか一部の消去などによってニューロン網を編成替えするという仕方で、実現されるのであろう。

このとき、編成替えの根拠となるデータは、母親をはじめ乳児の周囲にいる人間が語り、乳児の耳に入る“自然言語”であることはいうまでもない。しかも、乳児の周囲の人々は、“自然”のままに語りあい、時には乳児に語りかけ笑いかける。乳児は、その話し声を聞いて、おそらく、その中から母音を抽出し、母音の特性(第1フォルマント、第2フォルマントなど)を分析して「マグネット効果」の核となる音素を特定しているのであろう。つまり、母語となる言葉を聞きつつ、その無数の実例によって何を〈母音〉とするかの定義を進めていき、そのことによって同時に〈子音〉を定義していくのであろう。チョムスキー風に言うと、このようにして、母音と子音が生成されていくのである。

こういう“学習方式”の脳の成長のさせ方、無数のデータの反復入力を行うことによって脳をそのデータ群に特化させるという方式が、実際にヒトの乳児で行われてる。これは、否定できない。この方式で真に驚くべきことは、この脳の「学習」の根拠となるデータは、乳児の周囲の自然な人間の会話や語りかけであることで、なんらスタンダード(模範)が示されていないし、乳児をとりまく大人たち(日本ではそのほとんどは母親であり、ずっと割合が落ちて父親、というのは通常の状態だろう)は、まったく“スタンダードを示そう”というような意識がないことである。誤謬もあいまいさも偏奇もある“自然”なままの言語、というより文の断片ばかりである。それにもかかわらず、ある言語集団に育つと、その母語の母音の聞き取り能力が、あたかも遺伝であるかのように、生後1年余りの乳幼児に、実現するのである。なぜ、こんなことが可能なのであろうか。

もちろん、ことは母音の聞き取りだけではない。その母語の子音も含めて、音韻全体の聞き取りができるようになるのである。その前提として、聴覚がとらえる音のうち、どれが「ことば」であり、どれがそれ以外の音であるかの判定ができるようになっているはずである。
一般に、乳児の発達において、聞く能力の方が話す能力よりも先行して発達している。乳幼児がみずから言葉を構成することができるだけでなく、音韻が「発音」できるようになるという、二重の・2部門の能力が用意されなければならない。前者は大脳皮質の問題であり、後者は大脳皮質だけでなく多数の筋肉の協働の課題を含む。それゆえ、発語はかなり高度な咽喉部の運動能力の成熟を要する。

なん(喃)語 ⇒ 1語文 ⇒ 2語文 ⇒ 3,4語文以上 ⇒ 発話

3、4歳児ごろまでに、「なに?」「どこ?」 「だれ?」 「いつ?」「どうして?」「どんな?」等の疑問詞の理解、また、いくつかの助詞の使用(日本語の場合)が可能となる。文の構造、すなわち、語順についての基本的な文法が身につく。5,6歳までに母語の獲得はほぼ完成する。その後は語彙を増加させ、会話能力が上達し、推論能力の発達に伴って複雑な構造の文が可能になる。(英語での例だが、オリバー・サックス『手話の世界へ』(p186)は、「平均的な健聴児は5,6歳で3000語を身につける」と言っている)。

ノーム・チョムスキーの著作も講演集もわたしには難しくて手におえない(むろん翻訳本のこと)。「生成文法」というような題名の付いている解説書も難解でよくわからない。したがって、以下ここで述べるのは、わたし流のチョムスキー理解にすぎないので、そのつもりで。
チョムスキーの2度目の来日(1987年1月)のとき、一般聴衆向けに3回の連続講演をしている。その一つが「言語の性質、使用、および獲得について」である(『言語と認知』所収 秀英書房2004)。その中に、言語の問題を4つに区分して説明しているところがある。
つぎの、第1項目でいうシステムをチョムスキーは、その言語の生成文法(generative grammar)と呼ぶ。
  1. ある「言語」は、どのようなシステムであるか。どんなシステムが脳内に実現しているのか。
  2. このシステムは、どのように使用されているか。認知システム・知識システムとの関連。
  3. この使用は、生体内のどのような物理的メカニズムによって実現しているか。
  4. これらの能力は、どのようにして獲得されるか。
この第4項目をチョムスキーはみずから「プラトンの問題」と言っている。『言語と認知』から引いてみる。
4番目の問題、すなわち言語はどのように獲得されるのかという問題は、プラトンの問題の、一つの特別なケースである。接することのできる証拠はほんのわずかであるのに、どのようにして非常に豊かで、特定の性質をもつ知識、あるいは信条や理解に関する非常に込み入ったシステムをわれわれは所有するようになるのであろうか。その問題がプラトンを悩ませたのは当然であり、われわれをも同様に悩ませるはずの問題である。(p124)
ヒトの乳児は、数年のうちに言語能力を身につける。乳児が主として母親や周囲の大人からもらうデータは、不充分でしかも不完全なものでしかないが、どの乳児も(健常であれば)例外なくその母語の文法を身につけ、年齢と共に語彙や論理力を増すことで、無限のをつむぎだす能力を得る。
分かりやすく言えば、貧困なデータをもとにして、言語の完全なワンセットをなぜ手に入れることができるのであるか。しかも、全世界に無数にある民族語で、普遍的に同じことが起こっている。おそらくそれが人類の特徴である、というかのように。これには、何か重大な理由というか、構造が秘められているのではないか。
これに対してチョムスキーが提出した〈仮説〉が、
ヒトの脳には生得的に、普遍文法(universal grammar、UG)が備わっている
というものであった。
もちろん、これで問題が解決したのではなく、言語学の問題の中心テーマをこのような形で据えなおしたのである(実際のところは、チョムスキーの最初の論文1956年の「Syntactic Structures」が出た頃は、言語学は世界中の言語の採集や分類をする“博物学的水準”にあったとされ、この論文によって言語学が一気にコンピュータ科学や脳科学の中心課題と結びつくことになった。その意味でこの論文の衝撃は「チョムスキー革命」と呼ばれている。


チョムスキーの独創性は、人類に普遍的に見られる乳児の「言語獲得」が、言語能力の生得性を暗示していないかという「プラトン的解決」を発想したこと(プラトンのイデアのごときものとして普遍文法を措定した)、もうひとつは、言語の本質をあくまで“システムであること”に見ており、文法あるいは統語法に言語の本質があると考えたことにある。言語学の中心課題を、単語や語彙から離れて、問題をシステムとして設定したわけだ。

簡単に言えば、ヒトは生まれるときに脳の中に「言語能力」を造りつけられて、すでに持っている、というのである。つまり遺伝的に持っている。その持っているものはチョムスキー流にいえば「普遍文法 UG」であるが、それが脳の中にどのように造りつけられているか、ということは現在わかっていない。分かっていないが、何らかの仕方でヒトの脳内に根源的な「言語能力」(普遍文法)があって、それが生後の環境(言語環境)のなかで解発されて、言語環境からデータをもらいながら脳内に具体的な言語が育成されていく。そのようなプログラムを、ヒトの脳は生得的に持っているとすれば、「プラトンの問題」は解決する。
言い換えると、「プラトンの問題」の解決のためには、ヒトの脳が生得的に「言語能力」を持っている、と〈仮定する〉ことが、あたかも論理的必然であるかのように考えられるということである。そして、チョムスキーは「普遍文法」という“原・文法”のようなもの(人類のもつすべての言語の文法の“共通部分”のようなもの)をヒトの脳は生得的に持っていると仮定したのである。

しかし、その潜在的な「言語能力」(普遍文法)は、生まれてから早い時期に脳内に具体的な言語を入力して「覚醒」しないと(解発されないと)、そのままでは潜在的であるままに終わってしまう。何らかの方法でそれが覚醒させられると、その入力される言語によって(英語なり、日本語なり、〈アメリカ手話〉=ASL(american signed language アメスラン)なり)、異なった母語(第1言語)が「学習」され、成熟していく。たいていは5,6歳までに一通りの母語が獲得される。
オリバー・サックスの文章を引いてみよう。
一般的な言語能力は遺伝的に決定され、本質的にはすべての人間で同一である――こう仮定するのには、(直接証拠ではなく情況証拠でしかないにしても)それなりに十分な根拠がある。しかし、ある特定の形式をもつ文法、チョムスキーの言う「表層」文法(それが英語の文法であるか中国語の文法であるか〈手話〉の文法であるかは問わない)は、その個人の経験によって決定される。この文法は遺伝によって与えられるのではなく、エピジェネシス(epigenesis 後成説、出生後に段階的に発達していくこと)によって獲得される。いいかえると「学習」される。(『手話の世界へ』p159)
〈手話〉はオリバー・サックスの(訳本の)記法で、ASLや〈日本手話〉などのようなろう者(聾者)にとっての自然言語である手話を表す。英語や日本語をなぞっているにすぎない「シグリッシュ(手指英語、Signed English)」や「シムコム(simultaneous communication sim-com、日本語の発語と同時に、日本手話を行う)」は、たんに手話と記している。
なお、手話の重要性は、ろう者の問題としてだけでなく、健聴者の通常の言語(=口話)の本質を理解するためにも重要である。手話は視覚による、口話は聴覚による言語であって、言語としての本質は同じであること。生まれながらのろう者で、ろう(聾)であることに気づかれないまま成長する、または、“魯鈍”な者と考えられて差別され放置されて、「言語能力」が覚醒しないまま成人してしまう場合がある。スーザン・シャラー『言葉のない世界に生きた男』(晶文社1993)は、27歳のメキシコ移民の全ろうの男がはじめて“言葉”の存在に覚醒する過程を、感動的に扱っている。こういうケースは、裏からチョムスキーの「プラトンの問題」の捉え方の正しさを証明している、と言えよう。
手話についての検討は、次章にまわす。


乳児において奇跡的なほど容易に自然に「プラトンの問題」が解決されるところを、チョムスキー自身の説明を聞いておこう。やはり『言語と認知』からである。
言語機能には遺伝学的に決定され、重い疾患を除いては、ヒトという種に共通し、しかもヒトに固有のものと思われる初期状態があると仮定する。この初期状態は、外界にさらされる条件が変化するにつれ、多くの異なった安定状態、すなわち多くの異なった獲得可能な言語に成熟しうることが分かっている。初期状態から成然した知識の安定状態に至るプロセスは、ある程度まではデータに依存している。英語のデータにさらされれば、心/脳は日本語ではなく、英語の知識を組み込むようになる。さらに、言語機能のこのような成長の過程は、生後驚くほど早く始まる。最近の研究では、生後4日目の幼児が、自分の共同体で語されている言語と他の言語とを、何らかの方法で既に区別できることが示されている。これは非常に驚くべき事実であり、言語機能のメカニズムが、生後間もなく作動し始めて、外部の環境に「調整され」てゆくことを示すものである。(p127)

「普遍文法」について、いくらかでも概念を得るために、簡単な議論をしておく。人類が持つ(持った)言語は数千と見込まれるそうだが、それらの言語には、なんらかの共通の性質があるだろうと、考えられている。まったく何の共通の特徴ももたない理解不能な言語はない、と考えられている。(仮にそういう共通するところのないものと人間がであっても、それを言語とは見なさない、と考えられる。
たとえば、どの言語にも、かならず「語」というべき区切りのある単位が存在する。そしてその「語」が人間にとっての何らかの「意味」を担っている、というようなあり方が共通する。つまり、人間が、対象をとらえるために認識対象に対して何らかの「分節」を行い、そのことによって対象をつくり出す(認識する)。それが「意味」を生み、「意味」を担うべく「語」が成立する。
「語」のうちで、主体をあらわすもの、自己をあらわすものが「主語 S」となり、主体の行為をあらわす「述語 V」と対になって、主体の行為をあらわす。行為の対象となるものを「目的語 O」とすると、{S,V,O}の3要素をもって、「文」が成立する。(いうまでもなく、3要素のそれぞれは場合によって省略可能である。
音声言語(口話)では、{S,V,O}の3つを順列をつけて一列に並べることになるから、3!(3の階乗)=6通りの順列が生じる。すなわち、
  1. S+V+O
  2. S+O+V
  3. V+S+O
  4. V+O+S
  5. O+S+V
  6. O+V+S
(1) は英語など、(2)は日本語などである。これらの語順のどれがスタンダードであるかは、英語環境で育つか、日本語環境で育つかによって異なる。つまり、乳児がある言語環境でそだっていくことによって、その環境でのスタンダードな語順がどれであるか、(1)〜(6)のどれかが決定される、と考えて、チョムスキーの「生成文法」では、パラメーターが決まるという。
たとえば、酒井邦嘉『言語の脳科学』は、つぎのような表現をとっている。
言語獲得とは、生得的に持っている言語の「原理」に基づきながら、母語に合わせてパラメーターを固定していく過程と見なせる。

言語が生得的・本能的・普遍的であるならば、言語は基本的に決定論で決まるということになる。原理の部分は遺伝的に脳の神経回路網として決定されており、残りのパラメーターの部分は環境によって決定される。(p117)
上引で「原理」といっているところが普遍文法であり、乳児が接する言語環境(母語)にあわせて「パラメーターが決まっていく」と言っているわけである。





第4章 おわり



第1章:超可聴音 第2章:数について 第3章:狩猟採集 第4章:大脳 第5章:手話

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