き坊のノート 目次

第1章:超可聴音 第2章:数について 第3章:狩猟採集 第4章:大脳 第5章:手話

大橋力『音と文明』の周辺




《第2章 数について》


第2章   目次

《4》情報環境学
《5》ユークリッドとデカルト
《6》数の構成
6−1《6−1》自然数
6−2《6−2》ペアノの公理(数学的帰納法)
6−3《6−3》有理数
6−4《6−4》デデキントの切断
《7》量と数[まだ、書いていません]



《4》  ―― 情報環境学 ――



《2》で掲げた、まとめ《A》を再掲する。
《A》:音としては知覚できない高周波が、快適性の指標とされる脳波α波を増大させ、共存する可聴音をより快適に感受させる効果をもつ
われわれが、人と話す・音楽を聴く・自然音を聞く………とき、“聴覚を使って音を聴いている”という。われわれは音を感じ、音に乗っているメッセージを理解する。われわれは音を感じていることを意識している。それは日常的なごくありふれたことである。
われわれの聴覚が音として聴くことができる(多くの場合は空気の)振動を可聴音という。それは、粗密波[縦波ともいう。水の表面にできる波のようなのを横波という]で、周波数[振動数ともいう]が、20Hz〜20kHzである[その上限、下限が人によって異なることはいうまでもない。通常、上限は16〜20kHzくらいとされる。老人は高音が聴こえにくくなる]。
可聴音を超える高い周波数をもつ(空気の)振動を超音波という。大橋力は超音波という語を使用していないので、それにならって小論では、「可聴音を超える高周波」とか略して「超高周波」と言っている。[超音波はJIS用語で、工業的な目的で発生させるような場合に多く使われるので、大橋は避けたものと思う。例えばレジャーでつかう魚群探知機の超音波は50kHz、200kHzなどである。]大橋らは、150kHz以上まで録音可能な録音機をフィールドに持ちこむようである。なお、超音波で有名な小型コウモリは、200kHzに達する超音波を発生させているそうだ。

《A》が主張しているポイントは、聞こえる音として知覚できない高周波が可聴音の感受に影響をもたらす、ということだ。「可聴音の感受」とは、音を聴いていることを〈意識〉している(意識しうる)ということだが、その意識の内容に超高周波部分(これは聞こえない)が影響しているというのである。そのことを裏返して言いかえれば、意識しているものだけでは意識内容が決定しない、ということになる。
意識可能なものすべてを集めても意識内容は決定しないことがありうる、という事実の含意するところは、原理的なことであるから重大である。

デカルトの『方法序説』が「我思う、ゆえに我在り」を明晰な判断の根拠として提示し、このことによって保証された「意識」と、その意識が意識の対象とする「世界」(物質)とが定立され、この“主客二分”の方法論は「近代的認識」の根底をなしている。この近代的認識の手法は、きわめて有効であって、認識主体(自己)が認識対象の「世界」を、あたかも全能者のように分析し・還元していった。認識主体があたかも全能者のように振る舞うことを許すのは、認識者が一定の倫理を守れば、認識対象と認識内容とが一致しているとする神話が存在したからである。この“主客二分”の方法論の神話が、ガリレオ−ニュートンに始まる近代的科学の「人間的根拠」として、きわめて有効であった。(20世紀はじめに、量子論が観測者が必然的に観測対象に影響を及ぼすことを原理として定式化した。
蒸気機関の発明が、産業革命を推進したのだが、学問的には熱力学の発展によってエネルギー概念が世界認識の重要な手段として知られることになった。19世紀後半からの電磁気学の発展、量子論の発見と発展によって、20世紀中葉以降のコンピュータの進歩・大規模工業生産の実現・DNA遺伝子の発見を中心とした分子生物学の進展など、相互に関連しながら、驚くべき物質文明の繁栄をもたらした。その結果、人口増加とグローバル経済が人類全体・地球全体を覆うという現実をもたらした。
手短に言えば、それはデカルト的人間観・世界観がもたらした、西欧型の近代的科学文明であった、ということになる。

原子爆弾被害や核工場や原子力発電所周辺で起こっている放射能被害や、わが国が世界に先がけて経験した公害問題の核心には、きわめて微量な有害物質であって計測限界であったり、微量なので許容限度内とみなされる、というようなケースがある。それが、生物体内で濃縮されたり、数十年も体内に存在していることによって否定しがたい有害性をもたらすのだった。つまり、生物活動および時間累積というような分野において、西欧型の近代的科学文明は粗放で無神経であった。(このことの原理には、資本制生産が、現在時点しか見ず、遠い将来性というような時間性について無関心であることに理由がある。個々の資本制行為者の意図が、その時点での“最大効果”を意図する競合であることによって、資本制生産の“自由”が成り立っているとして、30年後に初めてガン化が発症するような事例を無視していたのである。
別のタイプの問題は、地球の大きさは有限であるのに、あたかも無限であると見なして不要物を廃棄するという手法である。多くの公害問題にこの手法がかかわっていることは、現在は良く認識されるようになっている。だが、ここにも、“主客二分”の方法論の弱点が露呈している。主体は純粋な主体ではなく、自らの作りだしたものが客体世界を作りかえて主体自らに環流してくるという、相互依存の動的関係にあるものだった。つまり幽玄世界では如何にしても“主客が二分されていない”のであった。人類の生産・消費活動の影響が地球全体の気象を左右するほどになっている地球温暖化という現実は、このタイプの問題である。

大橋力のLP−CD論争への決着の付け方というか、人間の聴覚に関する新発見は、単なる音響学などへの技術的関心からだけ達成されたものではなく、デカルト的な近代的人間観にねざした近代科学とその成果である現代物質文明全体に対する疑問呈示を、深い動機にしている。
デカルトの「明晰判明」は終局するところ「言語性または記号連節性情報にコード化できる対象だけ」を確実な存在として認めることになること、近代科学は実験・観測の事実に依拠するという点ではきわめて有力であるが、「観測できない微小な影響についてはそれを存在しないものみなす」という前提に立つ。
ふりかえって見直すと、デカルトのスローガンである「明晰判明」は、明瞭に知覚されることによって意 識に捉えられ言語・記号・数値で表出できるもの、すなわち「言語性または記号連節性情報にコード化でき る対象だけ」を確実な存在として認め、それらに該当しないものを捨象してきた。そして、いったん言語性 情報の形に置き換えたあとは、それを担っていた実体と切りはなし、言語・記号・数値それぞれが、抽象化 されたおのおのの世界で他からの拘束を受けずに自律的運動をくり拡げうる体制を築いた。
一方、ニュートンの物理学の世界に入るためには、無限や極限など日常感覚で捉えて確かめることができ ないものを実在するものと区別せずに想定しなければならない。また、測定や実験などに必ずつきまとう 「ズレや誤差」を切り上げたり切り捨てて理想化しなければならない。これは、絶対に正確な目盛を打つこ とができず、それを使って正確な長さを読みとることも絶対にできない物差しをあたかも絶対的なものとし てあつかい、それと一致していないかもしれない自然を、足切りや底上げで歪めて強引に物差しの目盛に合 わせ離散的数字として解釈することを意味する。これによって、その時々の計測手段で観測できない微小な 存在についてはそれを存在しないものと同じに扱い、結局は無視する選択に身をゆだねることになる。(『音と文明』p151)
大橋は、近代−現代の科学技術に取り囲まれた人間生活の“環境学”を考えるのに、物質・エネルギーだけではなく、情報を取り入れる必要がある、と1989年の『情報環境学』(朝倉書店)で宣言している。

物質・エネルギーの概念に情報の概念を加え、これらが有機的に一体化したものとして環境を捉える発想の枠組のもとに構成する学問体系を“情報環境学”と名づける。(『情報環境学』p22)




《5》  ―― ユークリッドとデカルト ――

デカルト(1596〜1650)は、日本で言えば江戸初期の時代に当たる人物で、西欧の海外進出時代の後半に、充実し自信に満ちあふれた西欧人の人間観・世界観を代表したのであろう。「世界を明晰に見る」ということが動機になっている。
デカルトのなした重要な仕事は、「我思う、ゆえに我在り」で代表される哲学的なもののほかに、解析幾何学を創り出したという重大な業績がある(『方法序説』に付属する応用編の3番目が「幾何学」)。これは科学的な仕事としてはとても重要で後世に大きな影響を与えた。一口で言えば、ユークリッド以来の幾何学を、「解析学」(の学)に解体してしまった、というということである。後に述べるが「ユークリッド幾何学」は(『音と文明』に言わせれば)「の学」である。

解析幾何学の考え方の根源は、数直線である。理念的にはけして難しいことでも複雑なことでもない(そこに難しい問題が潜んでいることは「実数の構成」をしたあとに見出された。そのことは次節であつかう。ここでは現在の小・中学生が知る素朴な「数直線」を考えている)。直線上に〈目盛〉がうってあって、直線上の各点にその目盛の数値が対応していると考えるのである。すなわち

直線上の各点 ←→ 目盛の数値

という対応がついていると考えるのである。すると、直線上に存在しているすべての点の全体と、数値の全体(ゼロと正負の数のすべて、これを実数といい、で表す)とを同じものとみなす。実数全体と同じものとみなした直線のことを、数直線というのである。
その数直線を2本組み合わせて平面に座標(x,y)を導入し、3本組み合わせて空間座標(x,y,z)を導入する。これらを“デカルト座標系”ということがある。

わたしは長年、中学や高校の数学教師をしてきたので、自分の体験として語ることができるのだが、「数直線」の導入はきわめてスムーズで、何の問題も生じない。数直線というのは、“物差し”と同じことで、左右に無限に長く延びている直線に目盛がうってある状態だ、と言えばそれで生徒たちは了解してくれる(中学1年生。小学校の早い段階から「目盛のついた直線」として数直線が導入され、用語として「数直線」は4年生のときに入るらしい。中学になって「正負の数」が直線に乗っているとして数直線を学ぶ。無理数は中3で3平方の定理をやってから。)。
デカルト式に言えば、「意識」に対して「延長」をもつ実在として「物質」が存在することを疑いえないというわけだが、その「延長」には目盛がうってあった、というわけである。ほとんどの現代人はこのことを素直に受けいれているのではないだろうか。
直線のイメージに助けられて、「実数の連続性」は疑われることはない。高校生の学ぶ微積分学の初歩についても、極限操作(無限小の概念)になにか困難なところがあるとはまったく想像もしていない。

微分学を創始し、それが極めて有用で強力な道具であることを示したのがアイザック・ニュートン(1642〜1727)、ゴットフリート・ライプニッツ(1646〜1716)らであるが、微積分学が前提としている「実数の連続性」について本格的な追求がなされることはなかった。近代の数学は、微積分学(解析学ともいう)の有用性を磨き上げ、精緻なものとするのに全力をあげていた。「実数の連続性」について本格的な追求が始まったのは19世紀後半になってからである。(リヒャルト・デデキント切断の概念を示したのが1872年、カントールの対角線論法が1891年)これについては、次節で扱う。

「点」や「直線」というものは、ユークリッド幾何学では『原論』の冒頭の「定義」の中に出てくる。こういう「定義」は23も並んでいるのである。初めの4つを示してみる。(引用はユークリッド原論と、Euclid's Elementsから
定義

:点とはそれ以上分割できないものである。
A point is that which has no part.

:線とは長さをもち、幅をもたないものである。
A line is breadthless length.

:線の端は点である。
The ends of a line are points.

:直線とは点がまっすぐに並んだ線である。
A straight line is a line which lies evenly with the points on itself.
しかし、膨大な『原論』の冒頭に登場するこの「定義」であるが、これらは明らかに「定義」ではない。点・線・面について、それぞれの性質を述べて説明しているに過ぎない。つまり、『原論』は次のように述べている、と考えるべきである。
: あなた方は、というものを知っているだろうが、それを扱う際には、「点には部分がない」と考えよう。つまり、「点には広がりがない」としよう。
という具合である。「点」を定義したのではなくて、それは既知のものとして、「点」が持っている性質を説明したのである。言いかえれば、「点」を扱う際に、分割できず広がりがないものとして扱うという限定を課したのである。
「線」についても、同様である。
:あなた方はというものを知っているだろうが、それを扱う際には「幅」が無いものと考え、「長さ」だけはあるとしよう。
しかし、あきらかに、「幅」とか「長さ」というものがいったい何であるのかを知らなければ、この「定義2」は意味を持たない。「線」、「幅」、「長さ」というものを体験的に知っていることを前提に、この「定義」は書かれている。大橋力の言い方では〈量〉世界を体験的に知っていることを前提にしている。

第3番の「線の端は点である」という言明は、大変興味深い。「線の端」という“もの”を定義していると考えると、それが「点」である、と言っている。だが、「線の端」を定義しているというより、「端」というものを誰でも知っている“棒切れの端”というような意味で用いている、と言う方が適切ではなかろうか。
:無限に長い直線には端がないこともあるが、有限の長さの線(線分)には端がある。その端は点である。
言いかえれば、線分は点から始まって点に終わるということになる。後段で「〈数〉の学」を扱う際に「デデキントの切断」を説明するが、この「定義3」は、実数=〈数〉直線=〈量〉が明瞭に異なることを示していることになる。つまり、数直線の不可能性をあからさまに述べている、とも考えられる。

第4番は、上引の日本語訳に疑問を感じる。「which lies evenly with the points on itself」は、別の訳の「直線とはその上にある点について一様な線である」の方がまだ良いように思えるが、ギリシャ語原文を知らないわたしにはコメントを付けることができない。
わたしは、「どの点にとっても同様に延びている」というところに、“まっすぐ”ということと“終わりがない”ということの両方を含意していると考えたい。

〈数〉世界については、次節で述べる。
〈量〉世界というのは、ユークリッドの『原論』でいえば点・線・面というような「幾何学」が扱うものであって、それらがどのようなものであるかは、人間は視覚・触覚などの体験を通して知覚している「延長」ある物質世界から、認識し観念的に構成した図形的対象である。したがって、物理的実在空間とは同じではない。

大橋力『音と文明』でわたしは初めて学んだのだが、『原論』はギリシャ数学史において、ピタゴラス学派の〈数〉偏重が退いた後を受けて、〈量〉を基礎に置いて〈数〉と〈無限〉の迷路に入りこまないよう厳正な節度を持って構成されている、という。ピタゴラス学派の〈数〉世界偏重は、自壊し(ピタゴラスの定理の一番簡単な場合である、1辺の長さ1の正方形の対角線が平方根2=√2で、ピタゴラス学派の信奉する有理数ではなかったこと)、また、ゼノンの逆理の鋭い批判に答えることができなかった。
ゼノンの主張はまことに端倪すべからざるもので、彼の提起した問題は、現在に至るまで存在理由を失っていない。その核心は、「距離を長さのない点の集まりから構成されるもの、時間を持続のない瞬間の集まりから構成されるものと考えるのならば、運動を動きのない状態の集まりから構成されるものと考えてなぜいけないのか」と問いかけ、この発想の三点セットの中からその一角だけを恣意的に拒むことがいかに合理性に欠け、しかも成立困難であるかを指摘する。この指摘は尋常ならざる立論であり、はかり難い主張力をもっている。こうして、ピュタゴラス学派が高だかとかかげた離散的なの優位のもとにおける量数同一視のパラダイムのもつ限界と危険が、ぬきさしならない状態で浮彫にされた。(強調は原文傍点、同p142)
ピタゴラスはBC550年ぐらいの人、ユークリッドはBC300年ごろには生きていた。ピタゴラスの死のころにピタゴラス学派の衰退が始まっているとすると、その250年後にユークリッドは非ピタゴラス的な学的立場を確立すべく、〈量〉と〈数〉を峻別した『原理』を構成していた。それから2000年近い年月、デカルトに至るまで(デカルトは17世紀)ユークリッドの『原理』を根源的に否定する学的立場は現れなかった。
ユークリッド『原論』を大橋力『音と文明』のように称揚した論文を読んだのは、わたしは初めてであった。
(『原論』は)ピタゴラス的な数の絶対的優位性の信奉と、そのもとにおける量数同一視の思想とをあわせて放棄するとともに、〈無限〉や〈不可分の単位〉に象徴される制御と検証が困難な抽象的概念に厳重な封印を施すものになっている。この見直しを体現するものとして、それまで君臨していた離散的抽象的なを対象とする算術に代わって、連続的具象的なを対象とする幾何学が王座についた。この選択がいかに適切なものであったかは、新しい軌道の上に築き上げられたギリシャの幾何学が人類の叡智の究極の精華として今なお燦然たる輝きを失っていない事実によって、雄弁に支持されている。(同前p142)
デカルトは、ユークリッドを否定したわけではないが、直線と実数を同一視することによって、「解析幾何学」を創出し、結果的にピタゴラス派の復権をなしたということができる。その〈数〉優先の華々しい復権は、20世紀初めまで続き、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」(1931)が〈数〉優先の手放しの思想にストップをかけるまで続いた。ただし、それは理念上のストップであって、近代科学の圧倒的な力が、現代世界全体を席巻していることは、いうまでもない。

大橋力は、次のように記している。
カントールをもってピュタゴラスに擬するならば、ゲーデルこそ、まさに、ゼノンの生まれ変わりに擬するにふさわしい。(同前p150)


《6》  ―― 数の構成 ――

この節では、〈数〉の構成をのべる。

〈数〉は自然数を基にして、有理数、実数と構成されてきた。それの勘どころと、〈数〉が〈数直線〉によって、図形的に実現されている、という大前提がはたして信ずるにたりるかという問題に挑戦してみる。(この節は、大橋力からは少し離れている。ただ『音と文明』からは、大橋が指摘しているデカルト以降の近代の「量数同一視」について検討してみよう、という動機をもらっている。
わたしの参考書は、昔懐かしい高木貞治『解析概論』(岩波書店)の「付録1 無理数論」p457〜467。しかし、今回小論を書いてみて、「可付番無限」や「数学的帰納法の公理」などについて、自分がよく考えていないまま「解析学」(微分積分)を振りまわしていたことがよく分かった。そういうことに、関心がある方には、“反省の種”にはなるかも知れない。



《6−1》  ―― 自然数 ――

〈数〉についての出発点は、自然数である。

自然数とは、個別的な物体・事象などを、ひとつ・ふたつ・みっつ・よっつ・・・・・・と“数える”ことである。数えることは、物体・事象などをそれぞれ“個別的”なものとして把握していることが前提となる。ただ、単に個別的なものとして別々に認識している、というだけではなく、ある“共通性”もまた認識していなければ、数えることはありえない。
リンゴならリンゴを、いくつあるか数える。果物なら果物としてリンゴ、ミカン、ナシを数える。リンゴと石ころとを同時に数える場合は、たとえば“手ごろな大きさの物”というような共通性の認識が前提となっている。昨日・今日・明日のような非物体を数えるのには、より高度で抽象的な個別性と共通性の認識が必要である。

“数える”ことの前提となる認識として、個別性共通性が必要であることを述べた。この“数える”ということは、人間以外の生物にも認められるという。例えば、カラスは警戒すべき対象としての人間の人数を、居ないか居るかの〈2値法〉ではなく、4人ぐらいまでは知っていると言われる(カラスの餌を置いた餌台のそばに小屋をつくる。小屋に人がひとり入る。カラスは警戒して餌台に近寄らない。小屋から人が出ていくと、近寄る。小屋に人が2人入る。1人が出ていってもカラスは餌台に近寄らない。もう1人出ていくと、餌に近寄る。このような手順で、少しずつ人数を増やしながらカラスに対して実験して、カラスが混乱して分からなくなって間違えるまで行う。こういう動物心理学の実験はおこなわれているようである)。

〈個別性〉は、もともと物体として個別性が分かりやすいもの(リンゴのように)もあるし、分かりにくいものもある(水や雲のように)。物体として個別性が分かりやすいものというのは、本質的には、生物体である。何十億年という地球生物史(進化史)を背景にした、生物としての本質があって、それが生物体を個別的たらしめているように思える。1個の生物体の全体でなくとも、その機能のひとつを担う部分であっても、個別性を示すのが普通である。リンゴの実・木の葉・花など。
無機物は、多くの場合は、人間が意図的に個別性を設定してやらないと、その個別性がアイマイになってしまう。“石ころ”といっても、小石から抱えるような岩石まで、その個別性には幅があり、大人と子供、住んでいる地域、などで違いが生じることもある。つまり、石ころの本質としての個別性は具有していない、ということだ。

〈共通性〉は、“手でにぎれる大きさの石”とか“食べられるもの”、“警戒を要するもの”など具体的な物的対象についての共通性である場合は、説明しやすいが、昨日・今日・明日のような時間に関係しているもの、感情や体験のような人間の内面活動に関係しているものになると、その共通性を分かっているが説明しがたい。“きみは、今日、何回怒ったか?”

いずれにせよ、“数える”ことは、人間にとってはもちろん、ひろく生物にとって非常に普遍的な外界認識の手法であると思われる。その根源は、何らかの意味で外界を分節化してとらえることにある。むろん、生物によって、どこまで高度な「分節化」をなしているか、違いがある。「分節化」可能であるためには、〈個別性〉と〈共通性〉という、ある意味で相反する性質の認識が前提となる。
この〈分節化〉することを前提として、“数える”認識行為は、デジタルな認識である。

“数える”ことと〈数〉を認識することは、同じではない。“数える”ことの〈デジタル〉な認識を、認識としてとらえ返す心的行為が〈数〉の認識である。
たとえば、カラスが警戒すべき人の数を4人まで知っているというとき(仮にこのことが動物実験で正しかったとして)、カラスは単に4人まで数えたというのではなく、その結果を餌を取るか取らないかに結びつけているのであるから、数えたことをとらえ返して3人と4人を区別しえているのである(4人が小屋に入って、3人が出たときには採餌に来ないが、4人目が出ると餌台に来る)。

いうまでもなく、〈数〉を認識することと、〈数〉を言語として獲得することとには雲泥の差がある。言語としての〈数〉を、しばらく「数」で表す。日本語で「イチ・ニ・サン・シ」というのが「数」である。それを文字にしたのが〈数字〉で「1・2・3・4」や「一・二・三・四」である。

「数」(言語としての〈数〉)には、位取りが導入されて、多桁の表現が可能になっている。日本語では徹底した10進法が使われていて、きわめて分かりやすく、例外が少ない。「10・11・12・13」を「ジュウ・ジュウ−イチ・ジュウ−ニ・ジュウ−サン」とする。例えば英語は「ten・eleven・twelve・thir-teen・four-teen」で、11,12までが固有の呼称をもっていて、12進法(ダース)の名残をとどめている。それぞれの「数」にはそれぞれの民族史や文化史の個別的な事情が影響している。
〈数〉(数の理念)と「数」(言語としての数)は混同して区別せず使われることが多い。

〈数〉には、大きさを表す数と、順序を表す〈序数〉とがある。わたしは、大きさを表すことが〈数〉の根源的なあり方であると考えている。それに対して、序数は、ひとつ・ふたつ・みっつ・よっつ・・・・・・と数える〈数〉を、順序にも転用したものである。

睦月[むつき]・如月[きさらぎ]・弥生[やよい]・卯月[うづき]・皐月[さつき]・・・・・・・・師走[しわす]は、それぞれの月(朔望月)に個別に名前をつけたのであり、たとえば、皐月が5番目であることに意味がある訳ではないだろう。一年の始めを「立春」とするのは、おそらく中国文明圏でのことだろうが、睦月に「第1の月」の意味があるとは思えない(色々な語源説があり、“年の始め”という意義に結びつけようとしている。それはそれでよいが、「第1」の意味はないだろう。如月の語源説はとても多く多岐にわたっているが、いずれも「第2」の意義とは無関係)。ただ、1月、2月、3月、・・・・・・と序数をもちいて月を表すことが慣用化するに従って、それに影響されて月名に順序の意識がしだいに強まっていったのではなかろうか。現行の『日本書紀』は、本文に「二月」とあり、フリガナに「きさらぎ」とあったりするので、かなり古い段階からの、わが国の季節感や民俗慣習に関連した月名である可能性はある。
この問題について考える際には、さらに時代を遡ると「二倍年暦」(今の1年を、春年と秋年の2年に数える)を使っていた可能性があるので、単純な、1月、2月、3月、・・・・・・式の序数的な月名からは、さらに離れることを考慮しないといけない。
脱線ついでに、英語では、1月を January とはいうが、“the 1st month”とは言わないだろう、日本語の1月の意味で。つまり、英語は、日本語で睦月・如月・弥生・・・・・・が主流であった時代をまだやっているのであって、序数を月名に取り込んでいないのである。週の日名(日月火水木金土)は日本でも序数がいまだ入っていない。


《6−2》  ―― ペアノの公理(数学的帰納法) ――

前節では、自然数が〈数〉の基本であることを述べたが、ここでは、その自然数の重大な性質、“自然数は無数にある”ということを扱う。

自然数は、“数をかぞえる”というわれわれにとっては自明の行為を、抽象化して得られた理念である。前節でその理念を〈数〉で表してきた。ひとつ・ふたつ・みっつ・よっつ・・・・・・と数える行為の中に、見えにくい側面が隠れている。それは、この数えるという行為には終わりがないということである。

「終わりがないはずはない」という反駁がすぐ出てくるだろうことは想像できる。数えるという行為の具体性においては、たしかに、終わりがある。
例えば、百万円を数えるのに、万札を
1,2,3,4,・・・・・・,100
と数える。しかし、自然数という我々の理念の凄いところは、数え終わる数が100でなく、101,102,103と、いくらでも先まで数えられるというところにある。そういうことを、難なく承知しているところにわれわれの理念の凄さがある。このことがすなわち、われわれは無限を解するということである。逆に言うと、無限という概念に、それ以上の意味を持たせるのには、なにがしかの無理がある。

たとえば、きわめて大きな数Mを取りあげてみる。“有史以来人間が一度は考えたことのある数のなかで最大の数をMとする”というようなことでもよい。しかし、M+1はその次の数なのである。
子供の“ことば遊び”で「ひとの言う倍」というのを思い出してもよい。“大きな数の言い合い”の競争で、相手の言った数の2倍の数を自分はあらかじめリザーブしておく、というズルイ作戦なのである。これも、自然数にはいくらでも大きな数があるということを、巧まずして使っている遊びである。数学的には“巨大数”という分野がある。指数関数というのは、y = 2x のタイプの関数で、x が増加すると急激に増加する。そこで、その指数関数の指数に、再び指数関数を使えば、さらに急増する。この方向に議論を進めていくものである。クヌースの“↑記号”など紹介したいのだが、HTLMでは記述ができない。巨大数研究室など、参照してください。
単に、桁数の多い数という程度の認識では追いつかない、初めの2,3項しか書くことができないほど急激に増加する数列を見るのは、自然数の無限を考えるのに“教育的”だと思う。


ここのところを、もうすこし、精密に考えてみる。
「いくらでも先まで」というのは、行為のようにみえて、実は行為ではない。それは理念なのである。なぜなら、「いくらでも先まで」を行為として実現することはできないからである。行為はどこまでも有限の確定した結果をしか実現しない。
「いくらでも先まで」という理念、あるいは「終わりのない“数える”という行為」という理念、そういう理念をわれわれの自然数という理念は含んでいるのである。

この、「いくらでも先まで」という理念を、じつは無限可付番無限)というのだが、これについては、もうすこし説明を加え、納得してもらう必要がある。
そこで、まず、自然数の全体というものを、次のように、書きあらわすことにしよう。
0,1,2,3,4,・・・・・・
お分かりのように、・・・・・・の最後に終わりを書いていないのがミソなのである。(自然数は1から始まる、と習った人が多いだろうが、議論の簡略化のため、小論では0からとする。また“0”は歴史的に後で加わったのだが、その議論は省略してよいだろう。)。

“・・・・・・・・”という書き方が、とても重要なことを表している。これは、実は、ふたつのことを含めて表している。

  1. いくらでも先まで、終わりがない、いつまでも続く

  2. 以下同様に、前と同じやり方で、お分かりのような仕方で

“いくらでも先まで続ける”というだけではなく、その“続け方”が以下同様にという点が重要なのである。つまり“・・・・・・・・”という書き方は、その前に“0,1,2,3,4”と実例が書いてあって、「以下同様に」といえば分かるでしょう、という言い方をしているのである。“いくらでも先まで続ける”として、その続け方が、どこまで先に行っても「同様に」続けることができる、というのである。そして、その“続け方”が実例からよく分かるでしょう、というのである。
「そんなこと、分からねえや」と言う人には、明らかに、上の書き方は意味がない。(冗談ですが、4までしか数を解しないカラスは、「そんなこと、分からねえや、アホ〜」というでしょう。

ここで、発想の逆転をしたのが、有名な「ペアノの公理」(ジュゼッペ・ペアノ 1891)である。それは一口で言えば、自然数の構成をするということ、つまり、いくつかの仕組を挙げて、その仕組をみたすものが自然数であるあるいは、自然数と同等のものである)と定義したのである。つまり、その仕組に自然数の本質が凝縮されている、と考えられるというわけである。


  1. 0は自然数である。

  2. すべての自然数には、後者(successor)が定義されている。自然数 n の後者を suc( n ) で表す。(簡便に、suc( n )= n + 1 と考えておいてよい。

  3. 0を後者とする自然数はない。(0は最初の自然数である。

  4. 異なる自然数の後者は異なる。その逆も成り立つ。(n ≠ m ⇔ suc( n ) ≠ suc( m )

  5. 0がある性質P(0)を満たし、自然数 n がある性質P( n )を満たせばその後者 suc( n ) もその性質P( suc( n ) )を満たすとき、すべての自然数はその性質Pを満たす。(これを数学的帰納法の公理という。

(@)、(B)で、自然数が0から始まるとしている。(むろん、0は単なる記号で、0,1,2,3,4というような知識を前提としているのではない
(A)、(C)によって、自然数が、自然数列として定義され、それに終わりがないことや一列であって分岐しないことが保証される。(既知の自然数の性質で言えば、suc( n )= n + 1 なのであるが、この段階ではまだ“和”を定義していないので、“簡便に”と言ったのである。
(D)の数学的帰納法がなぜ置かれているかというと、(@)〜(C)で自然数列ができているのであるが、それらにはいまだ何の演算(加減乗除など)も定義されていない。その定義を数学的帰納法でするのである(小論では省略した)。

既知の自然数の記法で数学的帰納法の公理をあらためて書いておく。


自然数 n についての性質 P( n ) がすべての自然数について成り立つことを証明するには、次のことを証明すればよい。
  1. P( 0 ) が成り立つことを証明する。
  2. 任意の自然数 k に対して P( k ) が成り立つとすれば、P( k + 1 ) も成り立つことを証明する。


“ k ステップ目が成り立つことが分かっていれば、k + 1 ステップ目が成り立つ ”ということを証明してやるのである。すると、0ステップで成り立つというのだから、このあとは、果てしなく・同様に、性質P( n ) が成り立つことが分かる。ここで“同様に”は番号を+1することである。そこで、この“無限”に続く状態をもって、すべての自然数において成り立つということにしよう、という公理なのである(公理とは、“皆さん、認めていいでしょう?”という内容のこと)。

数学的帰納法の証明法は、明らかに有限回の手順で行われる証明であるが、それを“自然数の無限”へ限りなく伸ばしていってよいと承認する(「公理」として認める)、というのである。数学の方ではこれを有限の立場と称する。(小論では扱わないが、超限帰納法などの無限濃度をあげた帰納法は、有限の立場とはいわない。

かならず次のステップがあるというところが、肝心である。かならず次のステップがあるというのだから、これではステップに終わりがないことになる。終わりはないが、規則的な仕方で次のステップに進むことは保証されている、しかも、その“規則的な仕方”は常に変らず同様である自然数ではひとつ加えること、n ⇒ n + 1、ペアノの公理では「後者」suc( n ) に移ること)。こういう状態を、われわれは無限と言っているのである。
つまり、終わりのない・同様な手続きなのだが、この状態を、“自然数が表している無限”として承認しましょう、というのが、上の公理の意味である。評語的に言えば、“いつまでも、同様に”である。(これを、数えられる無限という意味で可付番無限とか、可算無限という

以上、ここまでは、“自然数の無限”については、数学的帰納法の公理によって承認しましょう、という立場を人類がとってきたことを説明した。
したがって、「数え続けて終わりがない」という状態自然数の無限とか可付番無限と言っているのであって、“無限”という数が存在するわけではない。

「数え続けて終わりがない」という状態を可能無限といい、数学的帰納法の公理を認めてすべての自然数の全体を数学的対象にする立場を実無限ということがある。比喩的に言えば、実無限は“数え終わった”視点、ということになる。(この問題について、独自な追求をしていると思えるすぐれたサイトカントールの対角線論法を紹介しておく。わたしは、全部読みました。ただ、数学的帰納法の公理の扱いが小論とは違っていると思う。このサイトの市川秀志『カントールの対角線論法』は出版されている

自然数についてはもうひとつ重要な性質がある。それは、“序数”として、順序立てて一列に並べることができるということである。これは、目盛をうつことを承認するといってもいい。これについて、説明を加える必要はないであろう。

自然数を、マイナス側までのばして
・・・・・・−4,−3,−2,−1,0,1,2,3,4,・・・・・・
としたものを整数 integer という。整数の全体をで表す。

蛇足かも知れないが、整数は、やはり“自然数の無限”である。“自然数の無限の2倍じゃないか?”と思うのは、誤解である(そういう“無限”はありません)。
の全体を次のように数えればよい。それは、0,1,−1,2,−2,3,−3,4,−4,・・・・・・ というふうに。このように、ひとつ、ふたつ、みっつ、・・・・・・と“数え続ける”ことによって確かに、どの整数もいつかは“数えてもらえる”ことは明らか(0は1番に、任意の自然数 n > 0 に対し、整数 n は 2n 番に数えられ、-n は 2n+1 番に数えられる)。
このようにして、の全体を、ひとつ、ふたつ、みっつ、・・・・・・という仕方で洩れなく数えていくことができるので、全体も“自然数の無限”すなわち可付番無限である。





《6−3》  ―― 有理数 ――

つぎに、整数同士のを考える。分数を考える、と言ってもよい(a:bをa/bと考える)。これを有理数 rational number といい、その全体をで表す。

有理数は整数の分数(a/b)である。その分母()を1としてみれば、整数自身も有理数であるとみなせる。集合論の記号では、
また、整数を整数で割ったものが有理数なのだから、その結果は、割り切れるか、循環小数となる。

有理数の全体の性質でとても大事なのは、稠密性[ちゅうみつせい dense]ということである。“混み混みに詰まってる”ということだが、学校時代に習っていないので難しいと印象されることが多い。証明はとても簡単なので、ぜひ、つき合って理解して欲しい。

有理数は、整数を分母と分子にとった分数だから、二つの有理数 p,q があったとすると、その大小関係は簡単にきまる(通分してもいいし、循環小数であらわしてもよい)。そこで、任意にふたつの有理数 p,q をとりあげてみる(同一のものではないとする)。p,q には大小関係があるから、仮に p < q とする。すると、p,q の間に必ず第3の有理数がある。すなわち、p < r < q となるような有理数 r が必ずみつかる、というのである。この事実を、有理数の稠密性という。
証明は簡単で、r として、p , q の平均値を採ってみればよい。
平均値=( p + q )/2であるから、p と q が有理数なら明らかにそれらの平均値も有理数である(分母に整数2がくるのだから)。平均値は、p と q の間の値であるから(それを疑うなら差 q-r などを作って符合を調べれば、容易に証明できる )、p < r < q となるような有理数 r がみつかったのである。
重要なのは,この先。

ふたつの有理数 p,q の間に、第3の有理数 r が必ずみつかるということは( p,q が異なる有理数なら、r は p,q のいずれとも異なる)、第3の有理数が無数にみつかることを意味している。もし、r がみつかったのなら、p,r 間にひとつ、r,q 間にひとつの有理数が必ずみつかることを意味し、この操作はいくらでも続けられるのだから。
ある有理数 a があれば、それのどんなに近いところにも有理数がある。それも、“無数に”ある。

脱線の話題なのだが、わたしは天文ファンで、「有理数が稠密だ」という話題になるといつも、夜空はなぜ暗いかという話に連想がいく。夜空は暗く、暗い夜空に多くの星が散らばっている。なぜか? この問題の意味がよく分からない人がいるので、しつこく述べておく。夜空は基本的に暗くて、輝く天体がある個所が輝いている。このことには、疑問はないと思う。
しかし、このことは星が有限個しかないことを意味しているか、宇宙(光の到達する宇宙)の有限性を示しているという。なぜなら、無限に星があり宇宙が無限に広ければ、どの方向を見ても“無限の量の光”が見えるはずで、夜空の背景はギンギラギンに輝いていることになるだろう、という。

有理数 a/b は図形的には、2次元座標系で、原点から座標( b, a )へ引いた直線の“傾き”( tanjent )を表す。原点から四周を見渡したとき、格子点を見込む「傾き」(の数値)がちょうどその有理数に相当する。遠くへ遠くへ格子点を探っていくと、それを見込む「傾き」も次々に新に生じるのである。つまり、有理数の貼りつけられた宇宙は「ギンギラギンに輝いている」ということになる。それがつまり、有理数の稠密性ということである。


有理数全体の「稠密性」という性質は、しかし、その本質がわかりにくく難解なところをもっていると思う。
有理数には明解な大小関係があるのだから、一列に並べることができる(実数をならべた「数直線」の上に有理数を並べることができるのは自明である。だが、われわれは数直線をこれから構成して行こうとしているのだから、「図形的な直線」の上に有理数を並べることが可能であるのか、が問題となるのである(補遺2)。が可付番無限であることは補遺1で示した)。

どんなに狭い隔たりの2有理数 p,q を取りあげても、その間に“無数の”有理数がある、というのが「稠密性」である。そうすると、直線は有理数で“ギュウギュウ詰め”になっていて、“一杯で満員”のような気がする。その分布は“べったり・つながって・連続”になっているように思える。〈数〉信奉のピタゴラス学派は、あるいは、そう考えていたのかも知れない。
ところがそこに、平方根2(√2)が発見され、それが有理数ではないことが“整数の性質を使って”容易に証明できるので、ピタゴラス学派は逃げようのない矛盾に陥ってしまったのである(補遺3)。

の稠密性は、しかし、数直線がいまだ“隙間だらけ”であることを許容するような“ギュウギュウ詰め”である、というのだ。だが、その“隙間”は有限の幅をもつような“飛び”ではあり得ない。
ほとんど自明だが、例えば、次のような証明がある(高木前掲書p460の定理5を参考にした)。
もしそういう“飛び”があったとして、その「有限の幅」より小さい有理数を d とする( そういう d > 0 が存在することは、有理数0のどんな近くにも有理数があることから、分かる)。十分小さい(マイナスで十分左方にある)有理数 a を用いて、有理数列

a, a+d/2, a+2d/2, a+3d/2, ………, a+nd/2, ………

を作ればこの数列は発散するから、いずれかの自然数 n で、a+nd/2 がその“飛び”のなかに入ることが起こる。要するに、幅の半分の目盛で有理数点をうっていったのである。“飛び”のなかに、有理数があったことになり、矛盾である。
すなわち、有理数全体を大小の順に並べたとき、“隙間”はあるのだが、その“幅”はかならずゼロである。(有理数の稠密性の“難解さ”については、補遺3の終わりでも、述べている。

有理数の全体の性質で、大事なのは、
  • 大小関係があること
  • 加減乗除ができること(上で述べていないが、加減乗除をおこなった結果がまた有理数に納まっているということ
  • 稠密性
整数全体のにおいては、大小関係は保証されているが、加減乗除はできないこと(加減乗はできるが、除ができない)、とびとびに分布していて稠密性はないこと(除ができないことに関連している)は明らか。




《6−4》  ――デデキントの切断 ――

いよいよ、有理数の全体に、デデキントの切断を導入する(そのことで、“実数”が導入される)。 には、大小関係があるので、つぎのような2組A,Bに分けることが可能である(この“可能性”の議論は補遺4で行った)。


  1. A,Bのいずれも空集合ではない。
  2. どの有理数もA,Bのどちらかに属するが、同時に両方に属することはない(A∪B=、A∩B=Φ、Φは空集合を表す慣用記号)。
  3. Aの有理数は、すべて、Bの有理数より小さい(a∈A,b∈B ⇒ a < b

要するに、すべての有理数を、大きい方(B)と小さい方(A)の2組に分けたというのである。もちろん、このような分け方は無数にある。この分け方を、切断(A,B)という。

すると、有理数の全体をこのような2組に分ける無数の分け方は、つぎの4ついずれかになる。(Aに最小値がなく、Bに最大値がないことは自明。
  1. Aに最大値があり、Bに最小値がある。
  2. Aに最大値があり、Bには最小値がない。
  3. Aには最大値がなく、Bに最小値がある。
  4. Aに最大値がなく、Bに最小値がない。
ところが、実際にはこのうちの1.はあり得ない。なぜなら、Aの最大値を a 、Bの最小値を b とすると、a,b はいずれも有理数で、A,Bの作り方からいって a < b である( a ≦ b ではないことに注意)。すると有理数の稠密性から無数にあるはずの a,b の間の有理数はA、Bいずれにも属さないことになり、仮定に反する(すべての有理数をAかBに分類したという仮定)。
2.3.は、それぞれこの切断(A,B)に、Aの最大値またはBの最小値が対応すると考えることができる。いずれも有理数であるから、この切断(A,B)によって、ある有理数が定められると考えることができる(本当のところは、その有理数を基点にして、有理数全体を2組に分けたのである。分けた後で、基点の有理数をどちらの組に分類するかに2通りの違いがでた)。

問題は4.の場合である。
直線上に稠密に並べることができる有理数の全体に対し、デデキントの切断(A,B)をし、その切断個所に有理数がなかった場合、切断(A,B)が、なにものか正体不明であるが〈数〉を定義していると仮定し、それを無理数と呼ぶことにする。つまりこの段階では、「無理数」という名称だけあるにすぎず、それがはたして〈数〉として、有理数と“円満に”共存できるような性質を定義できるかどうかは、これから示すべきことである。

ここで企まれている〈数〉の拡張は、有理数の“外側”を「無理数」として否定的に定義していることが、大きな特徴である。
「無理数」が有理数と“円満に”共存できるかどうかは、どういうことを示せばよいかと言えば、有理数が持っている性質(大小関係と加減乗除の演算)を「無理数」も同じように持っていて、それらが有理数の場合の自然な拡張となっていることを示せばよい。つまり、有理数と無理数をまぜて扱っても矛盾が生じず、大小関係と加減乗除の演算が自由に行えることを示せばよい。
そのために(少し早いが)、有理数と無理数の全体を実数ということにする。

実数の性質の定義の、ほんの、入口だけやってみる。ここで重要な役割を果たすのが、集合なのである。
まず、記号を切り替えて、切断(A,A')が実数 α を定義している、としよう。(このαがどのようなものであるのか、まだ、何も分かっていない。〈数〉と言って良いのかどうかさえ不確かである。
同様に、切断(B,B')が実数 β を定義しているとしよう。

まず最初は、α、βの登場以前である。ふたつのデデキントの切断(A,A')と(B,B')があったとする。“小さい方の組”A,Bについて、AとBが(集合として)等しくなかったとする。すなわち、

A ≠ B

A,Bが有理数の集合として一致していないのだから、Bに属してAに属さない有理数 m があるか、逆にAに属してBに属さない有理数 m があるか、のいずれかが起こっている。
前者が起こっているときには、m はA' の元だから、任意の a ∈ Aについて a < m (Aは小さい組だから)。ゆえに、a ∈ B(Bも小さい組で、m∈B)。ゆえに、A⊂B。
後者が起こっているときは、同様にして、A⊃B。

このようにして、次のような、第1歩が確認される。(図形的な性質をまったく用いていないことに注意

有理数の切断が2つ、(A,A')と(B,B')があったとすると、つぎの3つのうちのどれかひとつだけが、必ず起こる。
  1. A と B は一致する。 A=B
  2. A は B の一部である。 A⊂B
  3. B は A の一部である。 A⊃B

この事実に依拠して、次の定義を導入することができるのである。

有理数の切断が2つ、(A,A')と(B,B')があり、それぞれに、実数 α、β が“対応していた”とする。このとき、次を約束する。
  1.  A=B のときは、α = β であるとする。
  2.  A⊂B のときは、α < β であるとする。
  3.  A⊃B のときは、α > β であるとする。

この定義を用いて、ふたつの実数に、通常の等号関係大小関係が成り立つことを証明できるし、加減乗除が可能であることが証明できる。そして、実数の稠密性も有理数の場合と同様に示すことができる(証明省略)。その大小関係を用いて、有理数の切断の場合と同様に、実数の切断を定義することができる。

そうすると、その実数の切断について、つぎが成り立つことが確かめられる(証明省略)。


実数の切断(A,A')があったとする。
すると、Aに最大の実数があるか、A' に最小の実数があるかのいずれかひとつが成り立つ。


これが有名な、実数の連続性の定理である。
実数全体を考えると、有理数の場合のように“隙間”が空いていることがなく、切断個所の下側か上側にかならず実数が存在することになる。つまり、実数は“べったりと、詰まっている”のである(そうなるように、実数を構成したのだから、当然だが。なお、切断個所の下側と上側の両方に同時に実数が存在することはあり得ない。もし、その2数が同一なら、同じ数が上下両側に属することになり切断の定義に反するし、異なるなら実数の稠密性から異なる2数の間に上側・下側のいずれにも属さない実数が存在することになり、これまた、切断の定義に反する)。

有理数は自然数から作っているので、いわば、素性がはっきりしているが、実数の定義は有理数の切断を行ったときに対応する有理数がないものという、否定的定義であった。したがって、その素性がはっきりしていない。
実数の中には、比較的素性の分かりやすい√2のようなものもあるが、だいぶ分かりにくい円周率 π や、自然対数の底 e のようなものがある。しかし、それらはほんの序の口で、得体の知れない実数が、掘りだせばウジャウジャ出てくるのかも知れないのである。その“得体の知れなさ”は無限に深いもの、と考えるべきである。つまり、どこまで行ってもきりがない深さである。(上で紹介したサイトカントールの対角線論法のなかで、素数小数という面白いものを知った。素数2,3,5,7,11,…を無限に並べて、無限小数 0.235711…を作るというのだ。これはたぶん無理数だろうが。ここ

ただ、すでに有理数の稠密性があるので、どのような実数も、有理数によって、好きなだけ精密に近似することができる。たとえば、無限小数で表すことができる。前掲の高木貞治の本では、次のような簡潔な定理にしている。
実数 α に収束する有理数列が存在する。

このようにして、自然数を出発点にして〈数〉の論理の内部で、実数を構成していくことができるのである。
しかし、こうやってできた「実数」のうち、自然数有理数は、数学的帰納法の公理を承認することによって、それらのすべて「自然数の全体」とか「有理数の全体」)を数学の対象にすることができることになった。だが、無理数は“有理数ではない数”という否定的定義であるために、それらのすべてをほんとうに数学の対象として考えることができるのかという点は、不確かである。たとえば実数の全体は集合であるか、というような問にどう答えるかである。なにか、新たな「公理」を承認しないと先に進めないというようなことはないのか。


《7》  ―― 量と数 ――

この節では下のような内容を予定しているが、仕上げるのに時間がかかりそうなので、《7》は飛ばして、先に進むことにした。
  • 代数的数と超越数、「実数の構造」の見とおし難さ
  • 数直線と幾何学的直線、連続体とはなにか
  • カントールの対角線論法
  • ゲーデルの不完全定理
  • 「補遺」として、「ガリレオの『新科学対話』における無限について」
大橋力『音と文明』が展開するデカルト批判に刺激されて、〈数〉論を考え直してみたいというのがわたしの動機であるが、大橋力の本来の論旨とは離れてきていると思うので、このような扱いをする。





《第2章 終わり》



第1章:超可聴音 第2章:数について 第3章:狩猟採集 第4章:大脳 第5章:手話

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