き坊のノート 目次

第1章:超可聴音 第2章:数について 第3章:狩猟採集 第4章:大脳 第5章:手話
大橋力『音と文明』の周辺




《第3章 狩猟採集》



第3章   目次

《8》小泉文夫
《9》ターンブルとパットナム
9−1《9−1》スタンリー批判
9−2《9−2》ターンブル『森の民』
9−3《9−3》アン・パットナム『ピグミーとの8年間』
10《10》市川光雄
10−1《10−1》ムブティと農耕民
10−2《10−2》動物食・植物食・雑食
10−3《10−3》平等社会・互酬性



《8》    ―― 小泉文夫 ――

《2》で、大橋力が1980年代に、現存する理想的な熱帯雨林のひとつである赤道アフリカの“イトゥリの森”が、都会の騒音を超える高い音圧に満たされた空間であることを発見したこと、しかも、それが至福の快適な空間であることを証言していることなどを述べた。

イトゥリの森に(おそらく)数万年前から棲んでいる狩猟採集民であるムブティ・ピグミーたちがきわめて高い音楽的能力を、10代半ばまでに身に付けていること。その能力というのは、現在の資本制世界に流通している「職業的音楽家並のレベル」であると、「山城祥二」の立場をふまえて証言している。
私は、音とパフォーマンスといった、時間の流れとともに表現を構築していく世界にとくに関心がある。音楽の勉強はバッハから始めたんですが、やがて小泉文夫先生(故人)に音楽人類学ともいうべき領分を教わった。そして、いろんな民族の音楽に触れてきた中でも、ピグミーの合唱音楽は、人類の到達した究極のものの一つだといえますね。構造も、演じる困難性も高度なのに、10歳から15歳ぐらいの子どもが、職業音楽家並みのレベルでこなしている。(中略)われわれのように文明という加工性を追求していくのではなく、自分の中に本来もっている自然性に沿っていくことがもたらす結実なのではないか。(対談『ピグミーの脳・西洋人の脳』市川光雄との対談 p25)
つまり、われわれの職業音楽家が修業時代に厳しい鍛練の果てに到達する歌唱技術レベルに、ピグミーたちは、そのバンド社会[数家族〜十数家族のゆるい結合でできている社会集団]の喜びや楽しみを表出する行為として、生まれたときからその場に接し参加していることによって、皆が自然に到達している、というのである。これは、理想的な人生なのではないか。

小泉文夫の「世界の民族音楽」(NHK−FM 毎週放送 1965〜83)は、わたしはよく聞いた番組で、小泉文夫の低音の響く歯切れのいい声を覚えている。いつも微笑しているようなしゃべり口調だった。56歳で1983年に急死している(膵臓癌)。
わたしは小泉文夫のよい読者ではないが、手元に1冊だけ彼の著書を持っている。『音楽の根底にあるもの』(平凡社ライブラリー1994)という、主として講演や対談を集めたものであるが、分かりやすくとても面白い。そこから数ヵ所引いてみる。後に大橋力が精密に展開する趣旨が萌芽的に、あるいは平易な形で述べられている。わたしとしても、小泉文夫にあらかじめ細々とではあっても影響を受けていなければ、大橋力『音と文明』を一読して共鳴しなかったように思う。

まず日本近代の音楽教育の問題点を指摘している個所をいくつか。
つぎは講演からだが、非常に根源的で過激なことを述べていることが分かる。当時、東京芸大教授。布施明が唄った「シクラメンのかほり」が大ヒットしレコード大賞を取ったのは、この講演の前年1975年。
ぼくたちはどうして「シクラメンのかほり」だとか「しろじにあかく」だとかをうたうことができるのだろうか。それは習うからですね。必死にお勉強するから、幼稚園のとき、保育園のとき、小学校、大学なんてところで習ったり、楽譜をよんだりして、そうやって一生懸命身につけていく。自分の音楽でない、ほかの人が作った音楽を。だから、やっと拍子もとれるし、歌もほかの人と同じものがうたえるようになる。
私たちが人間だからではない。私たちはいっしょに暮らさなければ、そのルールを守らなければ、規則どおり学校に行かなければ暮らせないという、がんじがらめの社会の中に生きているから、ふだん歌がうたえるのです。
そういうふうにして考えてみると、私たちが音楽的だと考えていることが、ほんとうは人間の不幸の始まりかも知れない。(講演「自然民族における音楽の発展」1976 前掲書p186 強調は引用者)
「私たちが音楽的だと考えていること」というのは、近代日本が信じた「音楽的」ということであり、西洋音楽に範をとって、それの模倣に全力をあげたことを意味している。民族的な必然性があり長い伝統のある民族音楽(民謡・祭の音楽など)と切れたところで、「音楽的だと考えていること」を強制しているのが「音楽教育」である。
それがもっと歪んだ形で広く現れているのが、子どもに対する「ピアノ教室」であると、指摘している。詩人の岩田宏との対談である。
ピアノは指で押さえれば音が出る楽器ですから、子供たちがいままで持っていたあらゆる玩具より、ずっといい玩具です。子供はデパートで売っているちっちゃなキャンキャンしたピアノでも夢中になる。しかも、本当のピアノはもっといい音がしてもっと音が出るわけです。ところが、現在のピアノ教育では、そのピアノに向かうことすら子供が苦痛になっちゃう。それでしかも、そんなに面白い遊び道具なのに、それを何の指でどこをどれだけおさえなくちゃならない、というように一挙手一投足全部楽譜に書いてある。
倫理や道徳だとか人間の行動を規制しているものでも、あれほど厳密に人間の一挙手一投足をきちっと紙に書いたものは、ほかにないんですよ。楽譜というものは恐ろしいものですね。(対談「大いなる即興精神」1973 同前p268 強調は引用者)
本来、音楽は面白く楽しい、あるいは「表現の歓び」を伴うものであるのだろう。しかも、強制的に教育されて会得するのではなく、言語がそうであるように、その社会のなかで誕生し成育していく過程で自然に身についていくべきものである。日本近代の音楽が(すくなくとも、音楽の範型が)そのような自然性とは切れたところで、国民的な教育によって教え込まれることになったことを、小泉は「不幸の始まり」と言っているのである。小泉文夫のこういう発言が可能であったのは、彼が「音楽教育」も「楽譜」もまったく無縁なところで自生している高度で豊かな世界の民族音楽を知っているからである。

小泉文夫は旧制一高理科乙類入学(1944)、東大文学部美学美術史学科卒業、修士論文は「日本伝統音楽の研究に関する方法論と基礎的諸問題」。大学院に在学中、インド国費留学生として南インドに1年半滞在している(1957〜58)。この留学体験が後の小泉文夫の、世界的な視野に立った“「比較民族音楽」という方法”を創り出したと言ってよいと思う。彼は一高時代に、岡見温彦にヴァイオリン・高田三郎に合唱の指導・宅孝二のピアノに接している。インド留学中、ヴァイオリン奏者としてオーケストラに属して活動もしている。大橋力もそうであるような「マルチ人間」であったようだ。

インドとインドネシアのバリ島の例を、詩人の谷川俊太郎との対談で語っている。
小泉:(インドの)子供の歌でもそうなんですよ。いなかなんか歩いていると、夜涼しくなってきて子供が木の下なんかにみんな集まったり、個人の家庭なんかに集まって、夜おそくまで太鼓たたいてうたっています。そういうの聞いてましても非常にむずかしい歌をうたいますね、技術的に。
谷川:でも、そういうのは音楽教育によって教育されたわけじゃないでしょう。全く自分の身のまわりの人から、口伝えで教わっているわけですね。
小泉:そうですね。それはインドだけでなくインドネシアでもそうなんですよ。バリ島の人なんか、あのような大変な訓練をしなければよその民族だったらできないような複雑なリズムのものとか、ガムランなんかどんなに訓練したってできないようなものがあるわけですからね。それが、専門家じゃなくて全くの村人がやってるんですからね。その教育のシステムは、いわゆる西洋近代の音楽教育法という、ああいう練習曲なんかを何回もやってだんだん積み上げていって、楽譜を使い、さらに色んな解釈についての楽理的な研究の上でやっていくというようなメソッドとは全く関係のない、伝統的なメソッドでやってるんですけれども、しかしあの高さというのはちょっとまねのできない高さです。(同前p298 対談「音楽・言葉・共同体」1975)
日本民族の中で自生している(いた)音楽は確かにあったわけで、雅楽・田楽、声明・平曲、能楽、義太夫・長唄・新内。村落の祭や盆踊りなどの際の、笛・太鼓や近世に普及した三味線。後に触れることになるが、大橋力が称揚する能楽や尺八は、ムブティのポリフォニックや、バリ島のガムラン音楽などに十分匹敵する高度なレベルに達していたという。

わたしの経験では子供が浪花節のまねをする遊びは1950年代までは存在していた。銭湯で唸るおじさんがいたのはもちろんである。美空ひばりのデビュー間もない少女の頃、“教育に良くない”というようなPTAによる排斥運動があった程だ。小泉文夫は「森進一の発声法は明らかにあれは新内の発声であって、西洋音楽の影響はかけらもなくなっちゃった」と述べて、日本の“演歌”などの流行歌が1970年代には自立的な動きを見せていることを指摘している。また同時に「フォークのシンガー」のなかに「作曲の手ほどきをちゃんと受けた人たちとは違った鋭い感覚」を見ることがあると述べている(同前p316 対談「音楽・言葉・共同体」)。小泉は83年に急逝したので、残念ながら、そのあとの日本人のロックやニューミュージック系の(世界的)活躍や、ウォークマン・iPOD・携帯電話などによる音楽消費の熱狂現象についてコメントを聞くことができない。

「民族の中に自生している音楽」の一例として台湾南部の島嶼にすむヤミ族の場合を、講演でかみくだいて話している一節を紹介する。ヤミ族が本来的に持っていたと考えられる「ミカリヤグ」という合唱形式についてである。ミカリヤグの中でもとくに古い「ジパプトクの歌」というものの説明をしている。ジパプトクという大きな石が雷に打たれてガラガラ割れて、そこから人間が転がり出てきたという創生神話的な物語。
この島で一番うまいおばあさんがちょうどわたしの寝ているところへ遊びに来ましてね、真夜中に。それで、村長さんとかそのおばあさんとか有志の人が集まってうたってくれました。

それで、こういう順序でうたわれます。
すべてのミカリヤグは同じうたい方をしますが、最初にソリストがいます。[ここで聴衆に「ジパプトクの歌」のテープを聴かせる]この場合にはそのジパプトクの石から人間が生まれたという話をしますが、あるときにはそうじゃなくて、台湾の人が来て船が難破したということをいったり、この前の戦争の時に日本軍がどうしたかという、そういう話をいったってかまわない。どんなことでもいい。みんながお互いに共通している事件を思い出して、それを最初にその人が歌をうたう、自由なリズムで。

ところがしばらくうたっているうちに、手を打ってもいいし、その辺にあるもの何でもいいのです。ちょうど私は夜寝るとき本を枕にしていて、その本をポン、ポンなんて、ほかに楽器は何もないのですから、そういうものを打ったりする。拍子が入りますとほかの人でも参加できます。そのリズムに合わせればいいのですから。(中略)

そうするとほかの人がその拍子に合わせて一斉に入ってきます。これが第3部です。第1部は自由リズムでうたい出す。第2部はそれに拍子を自分でつける。第3部でみんながそこに参加してくるのです。音の高さは決まってないのです。
このヤミ族の人たちには、音の高さに2つ区別があるのです。高い音というのと低い音。(中略)どんな音程でもいいから(高低に)離れていればいいのです。(中略)第4部になりますと、その拍子をやめて一斉に各自の高さで、ワァワァワァーと引っ張る。

そうすると今度はほかの人が違う話を始めるわけです。みんながその話をだまって聞いていて、みんなが「ああ、そうだ、そうだ」そういうことが実際にあったな、そういったときに拍子が始まって、また同じようにみんなが参加して音を引っ張って・・・・・・こういうことが繰り返される。ちゃんと一つの楽式があるのです。

こういう形で、延々と朝まで続くのです。私はこれはおもしろい歌だと思った。もしかすると音楽というものは次第にこんな形でもって、だんだんと旋律を獲得したり、合唱のスタイルができたり、拍子がはっきりしたりしてきたんだな、なんて思ったわけです。(同前p189〜190 講演「自然民族における音楽の発展」)
「ミカリヤグ」は原初的であって、単純な音楽である。しかし、これが「単純だ」というのは外部の人間が“聴こう”とするからであって、仲間に入っていて、拍子を打ったりワァワァワァーと声を上げていたりすれば、十分に複雑で変化に富み、楽しく熱中できるのであろう、一晩中でも。

小泉文夫は続けて、台湾の首狩り族であったブヌン族の合唱を紹介している。和声が高度に洗練されてくる必然性を、うまく紹介している。そこではハーモニーがうまく合っていることを部落の気持ちが揃っていることの指標として使っているのだそうである。気持ちが揃っている確証があれば、首狩りに出撃する。「首を狩るということは団結をエンカレッジするのです」(同前p196)。
長老が一番初めうたい出して、それに長老に次ぐような人たちがだんだん合わしていく。みんなで重ねる。そうすると、一番初めにやった長老が合わないと思えば、ちょっと音を上げたり下げたりする。それに適当に合わしてやっていかないとだめなのですけれど、まあ、そういう和声の教科書とか何とかいうのを全然ふだんは読まない人たちですから、(中略)ほんとうに勘で占いのようにしてやってみる。そのときもしうまくいけば自分たちの気持ちがぴったり合っているのですから、このときこそみんなで一斉にとなり村を攻撃してやっちゃおう、というわけです。(笑)

そういう人たちにとって、このハーモニーが合うとか合わないとかいうことは、[音楽学校の学生が]今度のハーモニーの試験に受かるとか受からないとかいうこととは違ってはるかに生活そのものです。うまくいかなければ自分たちの首がなくなってしまうのですから、村の権益を守ることができないのですから。非常に生活がかかっている。そういうことを代々やっていますと、だんだんと耳がよくなって、和声の感覚というものが出来てきます。(中略)
つまり合唱のうたい方というのはこの人たちにとっては生活そのもであって、そういうものの中からひとりでにおぼえてきたものですから、、そのテクニックもほんとうに堂に入っている。

いまお聴かせしたのは台湾のブヌン族ですが、そのほかにもこうした合唱を持っている人たちがたくさんいるし、また(中略)リズムの複雑な音楽をもった人たちも世の中にはたくさんいる。それがみんな自分たちの共同体的な社会、自分たちが力を合わせて村を守らねばならないという、そういう状況の中にあったときに音楽がそういう形に発展するという一つの例として挙げました。(同前p197〜199 講演「自然民族における音楽の発展」)
言語や社会的習慣の基礎を学習・習得するのは、幼児期である。ここで扱われているような「民族音楽」は、その民族(部族)において、普通に生まれ育っていく過程でだれでも習得する音楽的対象である。
それはの問題とつながっているという大橋力の問題提起に関連する。母語が脳に刻まれるのと同時に、母的音楽が脳に刻まれているのではないかという問題である。つまり、どういう「音」を快感とするかという基礎がそこで決まるのではないか。・・・・・・そういう問題に大橋力が挑戦することを後にみるが、その源流はこういうところにある。

前掲書に収められている対談の一つが、角田忠信との対談である。角田は東京医科歯科大の教授で、“虫の音を左脳、右脳のいずれで聴いているか”という実験で有名になった『日本人の脳』(大修館1978)の著者。この対談も面白いのだが、ここでは省略する。後に、大橋力をめぐって、「脳について」を扱う予定であるので。

日本人が西欧の「平均律」という妥協的な便宜音階をお手本にして、それにあわせた楽器で懸命に「お稽古」する。そういうのが音楽で、音楽教育であるとして疑わない。それは、まったく西欧音楽の植民地的追従でしかないことを、小泉文夫は鋭く指摘した。(彼がインド留学で厳しく耳を鍛えられ、帰国後、平均律で調律した妥協的な日本式西洋音楽に耐えられなくなった話は、講演「音楽の中の文化」(1977)で述べている(同前p209〜213)。後に紹介する大橋力の「絶対音感」批判は、この小泉の指摘を究極的に深めていると思う。
音楽はいまの私たちが住んでいる社会では個性的なものであり、芸術的なものであり、すぐれた作曲家、すぐれた個性がどんどんすばらしい音楽を推進し、新しいものを創造していく、個性豊かに。そういうものが音楽だと私たちは考えがちですが、それは音楽のなれの果てだ。(笑)(同前p196 講演「自然民族における音楽の発展」)





《9》    ―― ターンブル『森の民』とパットナム『ピグミーとの8年間』 ――

《9−1》  ―― スタンリー批判 ――

イトゥリの森のムブティ・ピグミーと生活を共にした、イギリスの人類学者コリン・M・ターンブル(1924年生まれ)の『森の民』(原書1961、筑摩叢書1976)は、学者の書いた「民族誌」にありがちの“詳細で退屈なもの”ではなく、個々のムブティたちの個性が活き活きと描かれ、筆者の主観的感想や詠嘆が遠慮なく吐露されている“物語”であって、掛け値なしに面白い。ただし、2段組で259頁もあるボリュームたっぷりの書物である。

わたしのアフリカに対する最初のイメージは、ヘンリー・M・スタンリー(1841〜1904)の『暗黒大陸』などを子供用にリライトした“アフリカ探検もの”で作られたと思う。“密林と猛獣と大蛇と人食い土人”のアフリカである。(山川惣治『少年王者』や『少年ケニヤ』も挙げないといけないかも知れない。さらに映画「ターザン」も)。あらためて調べてみるとデビッド・リビングストンが布教・地理的探検を目的としてアフリカ奥地へ入ったのが1840年からで、73年にザンビアのバングウェル湖で死亡。スタンリーがリビングストンと劇的な対面を果たしたというのが71年のことだった。
スタンリーは何度もアフリカ奥地へ出かけているが、ドイツのアフリカ探検隊のエミン・パシャ(1840〜92)救出のときの探検が1887〜88年で、そのときにはスタンリーはイトゥリの森を3度も横断しているという(この探検行についてスタンリーは『In Darkest Africa』(1890)を刊行しているそうだが、はやくも1893年に矢部五洲訳『暗黒阿弗利加』という邦訳が出ていると、伊谷純一郎が紹介している(ここ)。伊谷は、スタンリーの探検隊がこの大森林を東へ向かって進むこと156日を費やして、はじめて平原の開けた明るい光景を目の当たりにしたときの感激の場面を引用している)。

スタンリーは最後は“サー”の称号を受けた名士で、そのアフリカ探検の著作が後世に大きく影響を与えたのであるが、強引な軍隊式の探検手法とジャーナリスト感覚の著作に対して批判も大きい。その著作はセンセーショナリズムに終始し、誇張と自己弁護で、学術的価値はあまりないといわれる。
富田正史『エミン・パシャと「アフリカ分割」の時代』(第一書房2001)の中から、引いておく。「暗黒アフリカ」的な偏見はきちんと清算しておく必要があり、スタンリー批判は意義があると思う。
スタンリーの探検は軍隊式の規律をもとにしており、隊員も住民も、かれの命令に絶対服従を要求された。かれは武力を頼りに自分のしたいことをし、隊員と仲良くなろうとは決してしなかった。かれは、隊員で、自分の意志に従わない者、敵対する者、隊から逃げようとした者は殺すか鎖につないだりした。怠け者には鞭打ちで見せしめにしたし、病気や怪我で動けない者を置き去りにした。また、隊員が住民から食糧その他を掠奪したり住民を暴行することを認めたし、住民を無理矢理ガイドやポーターにした。もちろん、抵抗・敵対する住民には容赦なく武力を行使し、殺害・排除したなどなど(p129)。

スタンリーは、明らかに、富と名声と名誉の獲得のためにアフリカに出かけたのである。富の獲得のためには、かれは筆力と雄弁を武器にした。当時も探検隊がその体験を発表するのは当たり前だったが、スタンリーはジャーナリストで、作文には長けていたし、発表の場にも困らなかった。(中略)現実と想像を一緒にし、虚言を弄することも厭わなかった。(中略)スタンリーはまさにジャーナリスト探検家の先駆けだった。かれは、探検に行ったからその体験を書いたというより、書くために探検に行ったのである。(p130)
エミン・パシャ救助隊の探検は、スタンリーの最後のアフリカ探検である。大西洋にそそぐコンゴ河を遡るルートで大陸中央部に達し、イトゥリの森を横断してアルバート湖でかろうじてエミン・パシャと会うことができるのだが、この探検は惨々たる失敗で、救援に出かけたはずがエミンに援助してもらうような状態で会う。しかし、スタンリーは「求めていた富・名声・名誉を一挙に獲得することができた」(富田前掲書p131)。詳細は同書を参照してください。エミン・パシャという数奇な運命の人物も面白いです。

ターンブルは『森の民』の冒頭で(ほんとうに冒頭で)、次のように述べている。
欝蒼として人の住めそうもない、広大な暗黒の湿地帯――イトゥリの森がある。これこそスタンリーが愛し、また憎みもした暗黒大陸の心臓部で、エミン・パシャ救援の不運な探検の舞台となったところだ。
この探検でスタンリーは、大森林を1度ならず3度も横断したが、戦闘と病気と逃亡で、同行者は回を重ねるごとに減り、結局、数百という人命が失われた。生き残った者たちも、言語に絶する苦難を味わった。(p3)
これこそ、まさに、わたしが少年時代にイメージした“アフリカ探検”であり、“暗黒大陸”である。
(イトゥリの森を訪れた者は)しかし誰もが、息もつまりそうな森の重圧感に圧倒されてしまう。湿っぽい空気、ひっきりなしに水滴を落とす巨木はいつも水を含んでいて、きまったようにやって来る猛烈な嵐の合い間に乾ききることがない。ちょっと驟雨が降っただけで、大地はたちまちにして息苦しい芳醇な香りを放つ。とりわけ、森に住みなれない人を圧倒するのは、その外見の静けさであり、千古の齢を重ねた隔離感と孤独感である。(p3)
これが、『森の民』の1頁目である。ターンブルは上のように述べた後、すぐに次のようにつけ加えている。「しかし、こうした気持はよそ者、すなわち森を住居としない人間のものであり、森の住民にとっては、それとちがった、まったくの別天地なのである」と。

『森の民』に出てくる「森を住居としない人間」というのは、「」にすむ黒人である。黒人というのは、ピグミー以外のバントゥ語系あるいはスーダン語系の住民で、「」の周辺に村を作っている農耕民である。ピグミーは森で獲った獣肉をもって村へ行き、農作物や金属器などと交換する。黒人はピグミーを奴隷として隷属させている主人のつもりでいるし、ピグミーは肉と交換したり歌・踊りを見せて黒人からさまざまなサービスを受け物品を引き出す都合のいい関係と考えている。その関係を維持するために黒人の村の習慣やしきたりを受けいれている。村には「ピグミーの村」というべき住居をもち、村に滞在して労働や歌・踊りを提供する際に使用する。なお、ピグミーは固有の言語を持たず、周辺の黒人の言語を使っている。
黒人は森を怖れていて奥深くには入らない。それに対してピグミーは、森は「父親でも母親でもあるだ」(p77)と絶対的な信頼を置いている。なお、この本には、筆者自身を除けば白人は、ごく稀に宣教師などが登場するぐらいでほとんど出てこない。また、アラブ人・インド人なども登場しない。(後に取りあげる市川光雄『森の狩猟民』(人文書院1982)は、ターンブルの『森の民』を評価しつつも、“ピグミーと自然との関わり合いにかんしてはターンブルの叙述はもうメチャクチャと言ってよい。森は父でも母でもあると、まるで子供に聞かせる「お話」のような説明に終始している”、と強烈である。(p19))

この本では、森 ⇔ 村、ムブティ=ピグミー ⇔ 黒人=村人が対立概念として使われていることを承知しておかないと、混乱してしまう。したがって、ムブティたちは森での狩猟生活と「ピグミーの村」での生活の“二重生活”をしている、と言うことができる。森では「狩猟キャンプ」を作り、数日から数カ月毎に移動する生活で、必要があれば「村」に出かけて行き滞在するが、そこにはそれぞれに割りあてられた固定住居がある。

ターンブルは、自分以前のピグミー観察者を挙げて批判し、自分との違いを強調している。一口で言うと、ピグミーは、「村」ではもちろん、「黒人」のいるところではどこでも、“主人たる黒人”が期待しているようなふるまいをするが、いったんピグミーたちだけになるとその仮面を脱いで、自由闊達な「森」の住人としての本質を表す。
シェベスタ[神父、ウィーンから1920年に派遣され、ピグミー族に関する著作を残した]にかぎらず、他のヨーロッパ人たちも、ピグミーの姿を目撃するのは、黒人の村か、黒人の農園内にかぎられていた。これに対して私は、森の中でも、村の中でも、十分に彼らを観察する機会をもっていたので、黒人とピグミーは、別々の環境下に生きる、まったく異なった二種の人間であることがわかっていた。今日まで、ピグミーに関してわれわれよそ者が持つ知識というのは、黒人の集団か、ないしは、黒人のいる所でなされた観察に基くものにすぎなかったのである。(『森の民』p11)
この一節が、この本の(ターンブルの)最大の特徴を述べている。ターンブルは、ムブティらの仲間に入って、一緒に狩りをしてよいという刻印を額に3ヶ所矢じりで刻まれ、白人の大きな体が不利である森の中の長時間の疾駆を日常的におこない、ムブティらのバンド(集団)の秘密である「モリモ」(空想的動物)の実態も、「ンクムビ」(割礼をともなう少年の成人式)や「エリマ」(初潮のあった少女への成女式)の実態もすべて明かしてもらうのである。そして、いずれの場合も、歌と踊りが重要な役割を果たすことが、ターンブルの雄弁な筆で述べられている。


《9−2》  ―― ターンブル『森の民』 ――

ターンブルの活き活きとした描写によって、イトゥリの森の底でのムブティたちの精彩ある生活が浮かびあがってくるのを、紹介したい。「第3章 キャンプ・レロの設営」から。長い引用ですが、楽しむつもりで読んでください。

ターンブルにとっては2度目のイトゥリの森での生活の始まりのところである。黒人の村にあるホーム・キャンプから、新しくレロ川のほとりに移動し、“アパ・レロ”(キャンプ・レロ)を作るところである。
各々の荷物を担いで、森の中の道を進む。2時間歩いて、ターンブルが1度目のときに生活した「アパ・カディケトゥ」というキャンプ跡に達するが、そこはわずかな輪郭が残っているだけですでに森に呑み込まれようとしていた。
そこでの短い休憩中に、ケンゲらは森に入ってキノコを採ってきた。
 それからたいして進まぬうちに、前方から大きな歌声が聞こえてきた。われわれよリ先に出発した女たちに追いついたのである。彼女らもキノコを採ったのだが、なにぶんわれわれより荷物が多いので、キノコは小さな子供たちが腕にかかえていた。男たちとちがって、彼女らはゆっくりとした足どりで、ときには歌い、ときには喋りながら歩いた。それは単に森へ戻った喜びからだけではなく、ゆっくり歩くと根菜類や果実を見つけやすいし、また、大声で歌ったり喋ったりしていると、どんな動物でも驚いて、攻撃してくるかわりに、逆にこわがって逃げてしまうものであるのを知っているからだ。
 森には危険はほとんどない。が、それでもうっかりしていると、いきなり襲いかかってくる野牛やヒョウはたくさんいる。ピグミーは、2人で出かけるときですら(どうしてもやむをえない場合以外は、決して1人では出歩かない)、前後一列になって大声をたてたり、手をたたいたりしながら歩く。彼らが静かなのは、現実に狩りをしているときだけである。

 この女、子供の一団を追い越して、しばらく行くと第2のグループを追い越した。夜明け前に出発した女たちと子供たちである。彼女らは食事をするために起こした焚火のまわりにまだ坐っていた。女は誰でも、キャンプを移動する場合には、燠を不燃性の木の葉に厳重に包んでもって行く。ピグミーは誰も、火種がないと火をおこせない。キャンプを移動中、休憩のためにわずかなあいだでも行進を止めることがあると、彼女らはさっそくその燠の包みをほどいて、まわりに乾いた木の小技を何本かおく。そして1、2度そっと吹いただけで火はたちまちパッと燃え上がるのである。そのコツが私にはどうも会得できない。私が火を燃え上がらせようとして、吹いたり煽いだりしていると、まだよちよち歩きの女の子が――時には男の子が――やってきて、ひざまずいて二度ばかり軽く吹いただけで焔がメラメラと燃え上がったことが何度あったことか。森の中は、じめじめしていて涼しい。だから、日中いつでも焚火のそばに坐るのは気持がよい。しかし夜は冷えびえとするから、焚火をたけば体が温まるだけでなく、動物を近づけぬ保護の役目をも果す。(中略)

 レロの渓谷に向かってゆっくりとくだっていたとき、われわれは遠雷を耳にした。ケンゲは足を止めて木の梢を見上げ、風がどの方向から吹いているかを調べた。まだ雨にはならないが、あの怠け者の女どもが急いで小屋をつくってくれないと、夜にはずぶ濡れになってしまう、と彼は呟いていた。

 しかし、今のところ、日は照っていたし、キャンプの予定地に着いてからも日ざしは変らず、緑の草木は青々と日に映えていた。それは差し渡し200ヤードほどの天然の開墾地で、中央部にある木立と薮によって、実際には2つにわかれていた。それは充分大きくて、見晴らしもよかったが、まだ木々は頭上でほとんどが触れあっていた。地面は落葉にかわって、一面にある種の草でおおわれていた。ケンゲは差し渡し数ヤードの小山のてっぺんに荷物をドサリとおろし、ここにわれわれの家を建てると言った。彼はそれから私にほかならぬレロ川を見に行こうと言った。たっぷり水浴びができるという意味である。(中略)

 レロ川がキャンプをとり囲むような格好で流れているので、この空地はさながら島のように見えた。ピグミーがどの川よりも愛するレロ川は、その湾曲した部分が差し渡し約100ヤードの広い浅瀬になっていて、澄んだ水がさらさらと流れていた。水かさの低いときには、浅瀬の中心部に小石の堤が現われた。真昼、木の間を漏れる日光がこの堤を照らすと、女たちは川を渡ってこの堤まで出かけ、嬉々として洗濯をした。水かさがこのように低いときには、足の踏み場さえまちがえなければ造作なく川を向こう岸まで渡ることができた。木かさが増すと、巨木の倒れたのを橋がわりに使った。

 向こう岸は急な斜面になっていて、最初のうちは森もまだ見通しがきき、親しみやすいが、斜面を登りつめたとたんに、森は密林となり四方から押し包んでくる。道といえば、狭い曲りくねった獣道しかなかった。

 ケンゲは誇らしげに胸をふくらませて、こうした場所をすべて私に案内してくれた。彼は、これらのどの流れの水も、あるいはレロ川そのものの水も、飲むことができると言った。食物も水も、不潔な村の生活とは大違いだ、と。彼は、女が水浴する湯所を示して、彼女らを怒らせるといけないから小石の州の上流にいるように注意してくれた。他の若者たちはもう素っ裸になって、水のなかで飛沫をあげていたが、それでも、着衣の多過ぎる西洋人たる私に敬意を表して、私のほうに向くときには手で前をおさえた。

 キャンプ予定地に戻ると、ケンゲは地面の整備にかかった。すると間もなく、偉大な狩人3人――ゾウ殺しのンジョボと、誇り高き父親のマシシと、しわがれ声の陽気な保守主義者マニャリボ――が到着した。彼らは大声で挨拶しながら開墾地へ入ってくると、あたりを眺めまわして、自分の家を建てたいと思う場所へ、それぞれ狩猟網を放り投げた。
 ンジョボは丘のすぐ南側を選んだ。マニャリボとマシシは仲の良いいとこなので、並んで向かいあう位置に網をおろした。そうしたかと思うとほとんど同時に彼らは森の中に姿を消した。共に弓矢を携え、それぞれ別の方向に消えた。
 ケンゲは、昨夜ここを通ったと思われる巨大な野牛の足跡を調べていたが、15分もたたないうちに突然立ち止まって、私に物音を立てないように合図した。彼は両手でレイヨウが走る格好をしてみせ、マニャリボが選んだ場所の背後の森の奥を指さした。と、ほとんど同時に、ンジョボから叫び声が上がり、ケンゲは狩猟網をつかんで、転がるようにキャンプを駆け抜けた。50ヤードとは離れぬところに、ンジョボが1本の倒木のはしのところに立ち、空洞になった幹の中を緊張して覗きこんでいた。マシシとマニャリボが空地を突っ切って駆けつけ、網を樹幹のまわりにすっぽりかけてしまった。そのあいだにンジョボはいそいでヤリをもって戻ってきた。

 ぽっかりと黒い口を開けた穴のなかを覗くと、暗闇の中から、爛々と燃える2つの真赤な目がまばたきもせずに私を見つめていた。ンジョボがソンドゥ(sondu)――非常に珍重視されるレイョウの1種――を見つけて追いつめたのだ。川が急カーブしているところに追いつめられたソンドゥは、樹幹の空洞に逃げこまざるをえなくなり、かえって逃げ場を失ってしまったのだった。すべてがあまりにも静かに運んだために、ケンゲの鋭い耳でなければ聞きとれなかったわけだ。
 網がしっかりセットされると、マニャリボは樹幹の上に立ち、穴から彼の姿がまったく見えないような角度で長い棒を突っ込んだ。森のレイョウは、小さいが鋭い角をもっていて、罠にかかると獰猛で危険である。このソンドゥも怒りと苦痛で荒い鼻息をたてながら、弾丸のように飛び出してきて、網の目を引き裂いた。それでも網から抜け出せず、もがき苦しんで悲しげな鳴き声をあげた。だが、それは一瞬のことにすぎなかった。3人の狩人たちはいっせいに襲いかかり、2人が押えつけているうちに、ンジョボがヤリの刃でノドを掻き切った。彼は嬉しそうに私を見て言った。「これは良いキャンプになるよ。まだ家も建てないうちに肉を恵まれたのだからね」

 そのあと15分もたたぬうちに女たちの最初の一団が到着した。彼女らは、雷鳴を聞いて歩みを早めたのであった。女たちは背中に重い荷をおい、腰には子供をぶらさげていながら、(その気になりさえすれば)男に負けない速度で歩くことができるのだ。彼女らは、歌いながら、大股で優美な足どりでキャンプに入ってくると、男たちがやったのとちょうど同じようにすばやくあたりに一瞥をくれて、家族のために小屋を建てる場所を物色した。ンジョボの若くて美しい妻マサムバも一行の中にいた。彼女は夫の網が置いてある場所を見つけると、自分も背中から荷を投げおろして、休息もとらずにナイフをとりだし、彼らの新居建設に必要な木の枝や葉を集めに出かけた。ンジョボは彼女の後ろ姿に向かって、自分たちも手伝って葉を集めるから私[ターンブル]の分も切ってこいと叫んだ。
 彼はマシシとケンゲに呼びかけた。私も彼ら3人に従ってレロ川を渡り、かなたの森の中へ入っていった。(p46〜51)
この引用で「第3章 キャンプ・レロの設営」の分量の5分の1にも達していないだろう。途中、だいぶ省略して引用している。それでもターンブルの詳細で丁寧で、しかも、愛情こもった筆が分かると思う。なんといっても、ターンブルの視線には、ムブティたちを“見くだす”ようなところがカケラもない。
「文明に取り残された野蛮人」という先入主が、スタンリーのころまでは確かにあった。わたしなどの中には、戦後ターザン映画を喜んでいたころまで、「野蛮人」という偏見があったとおもう。(確かな資料をいま挙げて示すことが出来ないが、マンガ『サザエさん』でもアフリカといえば、槍をもった人喰い土人(黒人)が大きな鍋で人間を茹でている画面がつきものだった。)


《9−3》  ―― アン・パットナム『ピグミーとの8年間』 ――

アン・パットナム『ピグミーとの8年間』(原著 MADAMI,my eight years of adventure with the Congo Pygmies 1954)は、スタンリーとターンブルの間に入る(時間的にも、思想的にも)作品だと思う。原著の『MADAMI マダミ』は黒人従者の呼びかけの「奥様 マダム」の意であるが、ニューヨーク生まれの女流画家が第2次大戦直後に、休暇を取って帰国していたパット(パトリック)・パットナムと出会い、結婚して、コンゴのパットナム・キャンプでの生活がはじまる、「コンゴ・ピグミーとの冒険の8年間」が。

アメリカの人類学者パット・パットナムはベルギー領コンゴで病院を開き、それの維持のためにホテルを経営し、小さな動物園も作った。やがてそこはアフリカ旅行者が滞在する所となり、「キャンプ・パットナム」として知られるようになる。パットナムは1953年に死亡するまで、現地の黒人やピグミーと直接触れて生活を続けた。
キャンプ・パットナムをターンブルが最初に訪れたのが1951年で、そこではじめてピグミーと会って研究心をかき立てられたのである。『ピグミーとの8年間』の中には、長期滞在者としてターンブルの名前が登場している。ターンブル『森の民』の中には巻頭の地図に記載されているし、本文中でも何ヵ所かで、キャンプ・パットナムに触れられている。『森の民』の訳者の藤川玄人は「あとがき」で
パットナムは1953年に死去するまで約20年間、イトゥリの森でピグミーと直接触れる生活をつづけたが、生前に発表されたのは「イトゥリの森のピグミー」と題する論文1編のみで、あとには膨大なノートが未整理のまま残された。(中略)未整理のノートを自由に閲覧する許可を未亡人から与えられたターンブルは、パットナムの資料を実地において確認するために2回目のアフリカ行き(1954)を試みることになる。(前掲書p258)
と述べている。
市川光雄は1974年にはじめてイトゥリの森に入るのだが、そのとき33時間かけて目的地マンバサまで走るトラックが、あと3時間の所で途中停車したエプルが、かつてキャンプ・パットナムのあった場所であった。
午後1時半、エプルに着いた。トラックが止まったところに、数軒の泥づくりの食堂があった。その向かい側には、「ナイトクラブ」という英語の看板のかかったバーがあった。ここはアメリカ人のパットナムが20年間も住んでいたところだった。彼の屋敷はパットナム・キャンプと呼ばれ、そこには彼が建てた病院やホテルがあった。パットナムの死後、彼の妻は米国に帰り、それ以来このキャンプはさびれる一方だった。街道筋の食堂の親父に案内を頼むと、彼は村はずれの草におおわれた家を示した。そこがかってパットナム夫妻の住んでいたところだという。(『森の狩猟民』p24)
アン・パットナム『ピグミーとの8年間』は、『ノンフィクション全集 9』(筑摩書房1976)に水口志計夫訳で収められている(これも2段組、113頁でかなりの分量。活字が小さい)。
わたしは、あまり期待しないで手に取ったのであるが、読みはじめてすぐアン・パットナムの素晴らしい文章表現力に驚いた。切れ味が良く、明解で、情景がよく分かるように書いている。しかも、十分に言葉を使った読みでのある文体である。「異境滞在記」ないし「旅行記」としては1級の文学作品であると思う。
原文はわからないが、ピグミーは「小人族」といい、それ以外のアフリカ人を「ニグロ」、「原住民」、「ふつうの大きさのアフリカ人」、「ほんとうの人間」などといっている。「ほんとうの人間」というのは、小人族がアフリカ人を呼ぶ呼び方だという(p8)。
アン・パットナムはアフリカ人(ピグミーも含めて)に対する偏見があったというより、感受性鋭い女性として、彼女自身が置かれた場をそのまま受けいれ、正直に偽らずにふるまった、というように思える。したがって、すこしも読者に不快感はない。
たとえば次のような証言は、「原住民」側(ターンブルの「村」)からの視点であるが、彼女の自由で鋭い視線が可能にした記録であると思う。
 一般的な法則として、ふつうの大きさのアフリカ原住民は、どの集団も、近くに住む小人族の集団を持っている。小人族は肉をさがし、主人たちに供給する。大きな原住民は、料理用バナナや、小人族のほしがる野菜を作り、新鮮な肉と交換する。狩りがあまりはげしいところでは、獲物がいようとしないので、小人族は多かれ少なかれ遊牧的になり、動物を追って居場所を変えなければならない。でも、種族の習慣のために、彼らの彷徨は、永久的な、主人の村から、歩いて1日、2日の範囲内に限られている。
 ベルギーの植民地政府は、原住民のやり方を尊重して、このような契約を保存している。政府は、あいだにはいって残酷な行為は防ぐけれども、小人族を二流の階級にとどめている。普通の大きさのアフリカ人は、税金を払わなければならない。(中略)小人族は税金を払わない。(p20)
しかし、上引のようなところは、アン・パットナムの筆がもっとも精彩を欠いているところで、「刺しアリの襲来」という章から、一番まとまりの良いところを引用して、彼女の筆のさえを味わってもらいたいと思う。(なお訳文の「刺しアリ」は「サスライアリ」のことだと思われる。長い引用ですから、そのつもりで読んでください。)

ピグミーのファイズィが「刺しアリ」の習性を「キングワナ語」(白人とアフリカ人との共通語)で説明してくれるが、その部分は省略。
 エプル川畔で2、3ヵ月過ごしたあと、わたしは刺しアリのことをよく知った。わたしは刺しアリを避けた。そして刺しアリのほうでも同じことをやってくれることを求めた。

 四月はじめのある夜、わたしは不意を襲われた。それは、月が高い積雲のうしろでかくれんぼをはじめ、かわるがわるに、ジャングルを薄暗くしたり、新しく鋳造した銀貨のような色の光であらゆるもののうえに輝かしい光を投げかけたりしている夜であった。
 いつもの寝る時刻を過ぎていたが、わたしは枕に身をささえて、遠いニューヨーク市の両親に毎週出す手紙を書いていた。耐風ランプの光はかろうじて物が見えるほどだったので、目が疲れると、浅い眠りに落ちた。手鋸で切り、ピカピカにみがいた原住民のマホガニのベッドのなかで、半分寄りかかり、半分すわったままの格好だった。マドモアゼルという、わたしのバセニー犬(中央アフリカ原産の、耳が立ち尾の巻きあがった小形のイヌ、ほえないのが特徴)は、ベッドの傍のラフィア(マダガスカル産のヤシ科の植物)のむしろのうえにからだを縮めて丸くなっていた。そして、パットが1週間まえにわたしにくれたチンパンジーの赤ちゃんは、わたしが眠りに落ちる直前に便箋から目をあげたときには、おりのなかで居眠りしていた。

   わたしがなんで目がさめたのか、わからない。たぶん、そばで落ち着きを失ったイヌのせいか、おりのなかで同じように不安になったチンパンジーのせいだったのだろう。それから、屋根の、乾いたモンゴンゴの葉のなかに、サラサラいう音が聞こえた。サソリが床に落ち、屋外に走り出た。なにかがベッドのうえに落ち、縁を這いおり、また床に落ちた。その軽い目方から、アブラムシかムカデだろうとわたしは思った。耐風ランプの光で、他の昆虫が屋根から落ちて屋外に向かうのを見ることができた。ハツカネズミが、絵の具とキヤンバスをのせておく棚のうえを走った。
 マドモアゼルは鼻を鳴らし、小さなチンパンジーはおびえてキャッキャッといった。なんのためにイヌがこわがっているのか、わたしには想像がつかなかった。いつもは、あんなに満足そうにわたしのそばに安らかにねて、よく食べ、一週間ごとになまけ者になっていくあのイヌが。マドモアゼルは、ふだんはなにものにもわずらわされなかった。お客さんにも、下男にも、小人族にも。マドモアゼルは、自分が主人のお気に入りだということを知っていた。そのために、他のあらゆる動物の上に君臨し、道徳的心理的に十分な自信を持っていて、いつも女王さまのようにくつろいでいた。
 この夜のマドモアゼルは女王ではなかった。おびえた、あわれな動物で、できるだけはやく走って逃げたいという欲望と、わたしに侍るように訓練された習性とのあいだの相剋にさいなまれていた。
 「いったいなにが心配なの」とわたしは、ベッドの縁に足をブラブラさせながら聞いた。

 動物係りのアバズィンガが、マドモアゼルに代わって答えた。台所に通じるドアをたたきながらアバズィンガは、「マダミ、死にたくなかったら、早く家のそとへ出なさい」とどなったのだ。
 わたしは服をひっつかみ、足をスリッパにつっこみドアに走った。ふつうはどんなときでも完璧な紳士だったアバズィンガが、寝室のなかへかけこんできた。見開いた目とまっさおな顔色から、なにか恐ろしいことが起っていることをわたしは知った。
 「パットなの?」とわたしは叫んだ。「パットになにか起ったの?」
 「マダミ、だんなさまがわたしをお寄こしになったんです」とアバズィンガは言った。「アリがここにいます。わたしたちは逃げなければなりません」

 一瞬、わたしのぼうっとした頭にはその意味が通じなかった。アリがここにいる。やっとその意味がわかってきた。どこかに、縦隊の小さなめくらの攻撃隊が近づいてきているのだ。ファイズィの話がわたしの頭をかけぬけた。たちどころに、わたしは、害虫どもの気ちがいじみた逃走と、マドモアゼルの恐怖を理解した。
 わたしはイヌに口笛を吹き、ドアヘ急いだ。アバズィンガは黙ってわたしをせき立てた。途中でわたしは重い靴と制作中の水彩画を何枚かひっつかんだ。
 「なにも持たないで」と動物係りは命令した。「時間をむだにしてはいけません」

 外に出ると、たいまつの輝きとカンテラのチラチラする光で、パットが動物を柵から出すのを監督しているのが見えた。下男たちは、興奮して走り回りながら、カモシカやブタやヒヒをもっと安全な場所へ引っぱっていった。
 パットはかけよった。興奮した少年のようにたのしそうだった。
 「アリリの小人族の1人が最初に見たんだ」とパットは言った。「アリはいま庭を通ってくるところだ」

 まるで民間の防衛担当官に訓練されてきたみたいに、原住民たちは全部の食物を集め、ホテルから遠くへ持っていった。他の人たちは、刻一刻と近づいてくるアリの前進を見まもった。わたしはアリが大きらいたったけれども、それを見たかった。それで、車庫のうしろの斥候たちといっしょになった。アリの大軍は、雑草の生い茂った垣根を越えているところだった。本隊は、幅30センチ以上のかたまりになっていたが、小さな集団や部隊が、縦隊から四方八方に扇状になって出ていた。最初その前進には、まるで秩序がないように見えた。けれども、しばらくすると、乗馬従者のようなアリがなにをしていようとも、主力の縦隊は、ホテルの西を通ってわたしの家へまっすぐ向かう方向に、しゃにむに動いているのがよく見えた。醜悪な、うしゃうじゃ這い進む行列のしんがりは、見ることができなかった。

 「なぜ火をたいて追わないの」とわたしはパットに聞いた。
 「まにあわないだろう」とパットは答えた。「へたに方向を変えさせると、病院のほうへ行ってしまうかもしれない。そうなればなお悪い」
 けれどもわたしは、わが家に刺しアリがはいることを考えただけで、ぞっとした。
 パットは見まもった。アリの縦隊は向きを変えなかった。1、2度下男たちがぼろを石油にひたし、棒にゆわえつけて火をつけたもので、アリの集団の縁をたたいた。
 「ばらばらになって、小さな行列が別方向に動き出すといかん」とパットは説明した。「おれはむしろ、アリをしっかり固めておいたほうがいいと思う」

 わたしは、アリがこんなに足のはやいものだとは考えたことがなかった。他のアリが目的もなく走りまわり、それほど遠くへは行かないのを見たことはあった。でもこれは刺しアリで、わたしが夢想だにしなかったようなはやさで動いた。縦隊の先頭のところにあるやぶや雑草に目をとめる。それからなにかに気をそらす。1分後には、その醜悪な集団の先端は、さっきの目じるしの60センチ、1メートル、いやおそらく120センチも先へ行ってしまっている。

 わたしが気がちがったように鳴き叫ぶチンパンジーの声に気づいたのは、すでにアリの行列がわたしの家のいちばん手前の壁に群がったときだった。わたしは思い出した。アバズィンガにうながされて逃げたとき、かわいそうに、チンパンジーをおりにとじこめたままにしてきてしまったのだ。
 わたしはファイズィの話を思い出した。走ったり飛んだりできないものはなに1つ逃げられない、とファイズィは言った。一瞬わたしは、下男の一人にチンパンジーを取りにやらせることを考えた。そのときわたしは、自分の良心の声が「でも、お前があのサルをおりにとじこめたままきたんだ。原住民じゃなくて、お前が臆病者なんだ」と言っているのを聞いた。イトゥリの森だけでもチンパンジーは百万匹もいるという理窟を考える暇もなく、わたしは家にむかって駆けだした。

 「ばかっ、引き返せっ!」パットはどなった。「そのままにしておけ!」
 わたしはドアをあけ、チンパンジーのおりに急いだ。チンパンジーは、こわがって泣きわめき、おりの竹棒をゆさぶっていた。わたしは掛けがねをひっぱった。掛けがねには錠前はなかったが、土地特有の仕掛けで、頭のいいサルが指さきであけることができないように、アフリカ人の大工が、留め具をとりつけていた。
 わたしは大工をのろった。引いたり押したり、ガタガタいわせたりしてみたが、わたしには、おりを動かす力がなかった。また、おりが大きすぎて、どのみちおそらくはドアから出せなかったろう。
 やっとのことでわたしは、掛けがねを1つだけ残して全部あけた。カンテラの光が、まるで石油がなくなったか芯が燃え尽きかけたかのように、弱くなった。だが、芯を切ったりタンクを満たしたりする暇はなかった。チンパンジーの赤ちゃんは横棒をガタガタいわせた。それがなんの効果もないと知ると、隅にちぢこまって、憐れっぽく鳴いた。
 おりをこわせる道具を手に取るべきだったのだが、女性のわたしはただ本能のままに行動した。わたしはそこに立って、ただむなしく自分の指だけて留め具をひっぱっていた。最初のアリがかみつくのを感じた。それはまるで投げ槍の選手が、ねらいそこねた槍をわたしにぶちあてたようなあんばいだった。
 続いてまたひとかみ。刺しアリにかまれると、スズメバチに刺されたように痛かった。ありかたいことに、1、2分間、それ以上なにも起らなかった。次に別のアリがかみついた。こんどは左のひざのうえだった。わたしは思わず痛いっと悲鳴をあげた。恐怖にかられたわたしは、いままで出したこともないような力が出た。たった1回ひっぱっただけで、おりの戸があいた。手をつっこみ、チンパンジーの首輪をつかんで、わたしは安全なベランダヘ逃げた。
 パットは悪い足で(気腫にかかり、ほとんど足を使うことができなかった)、わたしを追いかけ、ちょうど玄関の階段をのぼっているところだった。しかし、原住民たちは恐怖のため動けなくなり、安全なホテルの庭から1歩も動かなかった。

 背後の家のなかで、何百万というアリの不愉快な音、しゃにむに部屋から部屋へと押しよせる音を聞くことができた。実際には、それは無数のちっぽけな足のほとんど音のない音と、何百万というちっぽけな顎の音とからなる、とてもかすかな音なのだった。
 わたしはホテルヘ行って、チンパンジーをアバズィンガに渡した。それから建物のうしろの木陰へ行って、吐いた。
 コックのアンドレが通りかかり、ホテルヘ連れていってくれた。アンドレは、アリの状況をずっと知らせてくれ、家のことは心配する必要はないと言った。
 「運がいいですよ」とアンドレは言った。「害虫を全滅させてくれるでしょうからね」
 「そうかもしれないけど、10パーセントのDDTの噴霧器を使ったほうがいいわ」とわたしは言った。
 「ネズミやハツカネズミさえ、居残って刺しアリに向かおうとはしません」とアンドレは説明した。「刺しアリはくずの山を一つ残らず調べ、くずのかけら1つのこさず、虫や虫の卵さえ見のがさないんです」

 ホテルのボーイがしらのイブラヘムがかけよってきた。
 「だんなさまがカンカンになって怒ってらっしゃいます」とイブラヘムは言った。「だれかがジェネットを柵から出して、アリの通り道にある木につないでおいたんです」
 イブラヘムの片方の目は、狩りの事故でけがをして、やぶにらみになっていた。それは、黒い建物についた白い小さなよろい戸のように、変なぐあいに動いた。
 「それは山ネコのように鳴きました。でも、おそすぎてどうにもできませんでした」
 わたしは、小さなハサミのような顎が足にかみついたときのすごい痛みを思い出して、またすっかり気分が悪くなり、屋外に出てしまった。
 ほとんど2時間のあいだ、アリは屋敷に群がり、わたしの家のなかへはいったり周囲をまわったりして、むこうの森のなかへはいっていった。

 アリが、いま来た方向へ逆もどりする動きは見られなかった。この現象は、パットの言うところによると、食物をさがしまわっているだけでなく、子どもを生むため新しい巣にむかって遊牧の旅をしている途中を意味するのだそうである。
 「あの、這っていくきたないアリの集団のまん中のどこかに、女王のアリがいるんだ」とパットは言った。「それは、他のどのアリより20倍も大きい。女王アリは動くことができないので、働きアリが地面をひきずっていかなくちゃならない。女王は、卵を生むすばらしく能率的な機械にすぎない。2、3匹の雄のほかは、あのアリどもは、1匹だって目が見えないんだ。やつらは全部めくらなんだ。触角でさわる感じだけで動いているんだ。女王は、若いときには目が見えた。そのときには、羽も持っていた。雄は目を持っている。だから、女王が巣から飛ぶときにはついてゆくことができる。女王は、何匹かの雄を従えて、結婚式の飛行に飛び立った。その雄の1匹が女王と結ばれる。女王は巣に帰り、生殖をはじめ、何百万という卵を生んだ。それから新しいアリが出てきた。2、3匹の雄のほかは、全部めくらのアリなのだ」
 それは、わたしには恐ろしい話だった。昆虫が、ものすごい生殖力でもって世界を征服する日があるかもしれないという恐怖を、本で読んだり話に聞いたりしたことがあった。その夜いらい、わたしは、自然の女神によるバランスが失われたなら、刺しアリはたやすく世界を征服することができるだろうということを疑ったことがない。

 アリの最後の落伍者が行ってしまったとき、わたしたちはかわいそうなジェネットを見た。ふつうは大きな飼いネコの2倍ほどもあるその動物は、どの骨も肉をくいとられ骸骨だけになって、きれいにはだかになっていた。刺しアリがジェネットのうえに群がり、氷ばさみのような顎で少しずつ無限にかみ切って窒息死させるあいだ、とらえて離さなかった綱は、気ちがいのようになったいけにえがかみ切って自由になろうとしたために、ほとんどちぎれそうになっていた。
 ジェネットは、意地の悪い、下等な動物だが、こいつはふつうのよりも陰険なやつだった。10回もアバズィンガをひっかいたり爪にかけたりした。そんな悪行にもかかわらず、わたしは憐れな骸骨を見て、赤ん坊のように泣いた。わたしは、たいまつの無気味な光のなかに立ちつくし、コンゴとコンゴの無慈悲なやり方をきらえるだけきらった。それは、かくれた悪に満ち、圧倒的に残酷無情な、緑の地獄であった。

 その夜はどうしても家に帰る気にはなれなかった。好奇心に満ちてはいたけれとも、その建物に近よろうとは思わなかった。それでホテルの客間に寝だのだが、まず、すっぱだかになって、アリの軍隊が通ったとき、小さな殺し屋が1匹でもあとに残らなかったかどうか、体じゅうをすみからすみまで調べてみた。それから着物を調べた。どう見ても、収容所の囚人がシラミをとっているような感じだった。アリは一匹も見つからなかった。
 道を見つける目は持たないのに、障害をものともせず、進路からほんのすこしでもそれることを許さない本能に導かれて、どのアリも着実に行進していってしまったのである。

 翌朝は、晴れて日が照っていた。夜の恐怖は、日の出まえにエプル川にたれこめていた薄い霧のように消えはてた。ホテルのベランダからは、何百万というアリが、つい2、3時間まえに通りすぎていったことを示すものは、なにも見えなかった。しばらくしてわたしは、いつも虫を求めて飛びまわっている鳥がいないことに気がついた。理由は簡単に思いあたった。アリは森の縁までずっと広範囲にわたって、鳥の食物をなに一つ残さなかったのである。でもそれは推論してみて知ったことだった。パットナム・キャンプにあるものは、外観の上では、前の日と少しも変っていなかった。それは、私にはぜんぜん信じられないことだった。
 わが家についても同様だった。とうとう思い切ってなかへはいったとき、わたしは、わが家が修羅のちまたになっていることをなかば期待していた。ところがそんなところは少しもなかった。2時間のあいだ、わたしは家の天井から床下まで調べまわった。異状を見いだしたのは、ストーブのうえのからの茶わんと、小人族のダンスのお面だけだった。前の晩ヤシ油がいっぱいはいっていた茶わんは、まるで布で拭いたみたいに乾ききっていた。お面は、ヒョウの顔に似せて作ってあったが、上半分がなくなっていた。アリは、ヒョウの皮で作られた部分を食べてしまったのだ。そのほかには、何十万というあの小動物が床、壁、天井のいたるところを調べ、どの食器棚にもどの割れ目にももぐりこんだのだということを示すものはなにもなかった。わたしは、ベッドのものをぜんぶはぎ、衣類とテーブル掛けとナプキンを集め、ぜんぶイブラヘムの妻のアンボコにやって、洗濯させた。それを綱にさげて熱い赤道の太陽に乾すまでは、わたしは2度とそれを着たり使ったりする気にはなれなかった。

 アリがわたしの家を襲撃してから何年もたった。しかし、思い出したくもないと思っているのに、うじゃうじゃとアリの縦隊がわたしの体のうえを行進していく夢を見て、汗びっしょりになり、きもをつぶしてもがきながら目をさましたことが何度もあった。(p12〜19)



《10》    ―― 市川光雄『森の狩猟民』 ――

《10−1》  ―― ムブティと農耕民 ――

《8》の冒頭で、大橋力と市川光雄との対談から、ピグミーの音楽能力の高さに関する大橋の発言を引用した。おなじ対談から、ここでは、市川の発言を聞こう。
まず環境が熱帯多雨林だから、ジャングルと暑さを想像するんですけれど原生林は下生えが少ないから数十メートルは見通せて、朝の気温は17度ぐらいまで下がり、最高でも30度にはなりません。雨期でも何日も降り続くことはないし、服とか冷暖房設備とかがなくてもいい。よけいな改変をする必要のない環境といえますね。(中略)

紀元前二千数百年ごろのエジプトの王朝で、ピグミーを「神の踊り子としての小人」と書いている。ナイルの源流付近に住んでいる彼らを連れてくるようにと、ファラオが軍隊の司令官に命令を出している記録が残っています。
形質人類学の分野になるんですけど、彼らの身体的な特徴の小柄でずんぐりした体形は、どうも森林適応的な形質らしい。それが形成されるには、何千年もかかるだろうから、それぐらい古くからいたんじゃないか。
(『ピグミーの脳・西洋人の脳』p21)
家は直径2mぐらいの円形に、弾力ある細い木を立ててたわめてドーム状にし、それにウチワのような葉を重ねて葺いていく。半日でできる。2,3ヵ月は十分にもつ。裸で寝ていて、寒くない。家財道具も、弓矢や狩猟のネット、運搬用のバスケットなど全部網羅しても80点ぐらいしかない。大半の必要物は森の材料で造って使い終ったらすててしまう。
大橋:食べ物がすごくリッチですね。キャンプのいきなり隣から、より取り見取に食料がとってこれるような豊かな状態は、想像もしていなかった。
市川:植物性食物では、おそらく5,60種類を利用していて、ほんとに重要なのは10種たらずですが、利用可能な植物はその何倍もある。(略)
大橋:ムブティの食文化の大きな背景として狩りがありますね。
市川:弓矢猟とネット・ハンティングという2つのやり方があります。どちらも集団で獲物を追い出してとる。女の人はよく歌いながらついていく。獲物を運ぶのは女の人なんですね。森の中には中形以上の哺乳類が50種類以上いるが、それらを全部食べるんです。その8割がたを、12歳ぐらいまでに食べます。
市川光雄の『森の狩猟民』(1982)は、科学的な人類学の観点からの、素人にも読める「民族誌」として、おそらく満点に近いすぐれたものであろう。専門家にしか必要のない細部や見解をスッキリとカットしてあって、読みやすくしかもピグミー社会の構造が自然に浮かびあがってくるように、写真や地図・図表をふんだんにつかって記述が進められている。

なんといってもまず「」についての、市川の専門的な調査を踏まえた記述がどういうものか、紹介したい。胸がすくような見通しの良さを感じるはずである。
市川のベース・キャンプはマワンボというところにあるのだが、雨期の最中の9月そこから西方へ向かって調査行を試みたときの記述である。「森の恵み」という小見出しがついている。
 マワンボから十数キロ進んだあたりで、10キロ近くもつづくみごとなムバウの純林の中に入った[イトゥリの森は“テンプ”、“エコ”、“ムバウ”の、いずれもジャケツイバラ亜科の3種の喬木のそれぞれが優占種となっている]。森林の第1層から最下層まで、すべての層をムバウが独占していた。歩くのに邪魔になるような下生えぱきわめて少なかった。
 ムバウの木は、手のひらをたてに2つ並べたくらいの大きな葉をつける。その葉にさえぎられて、地表にはほとんど直射日光が届かない。森のなかはまるで夕暮れ時のように暗かった。この見事な森を写真におさめたいと思ったが、F2レンズの絞りを全開にしても、シャッター速度を8分の1秒まで落とさなければならず、とてもまともにとれそうには思えなかった。真昼だというのに、森の中は肌寒いくらいの冷気に包まれており、長そでシャツで歩いても少しも暑いとは感じなかった。

 ムバウの純森のようなところが、はたして人類の居住地として適当かとうかは疑問だろう。しかしこの森には、ほとんど無尽蔵の食料源がある。森はちょうど、ムバウの実の成熟する季節だった。地表は、落下したムバウのさやと、さやからはじけ出た直径4、5センチの大きな平たい豆で埋めつくされていた。この豆を食物にすれば、1年のうちの数ヶ月は、まず食料に窮することはあるまい。

 それから1週間後に、私はビアシクのムブティのキャンプを訪れた。そのとき、実際にこのムバウの豆が食用にされるのを見ることができた。彼らはこの堅い豆を、茹でたり、すりおろして熱湯を住いで、粥のようにして食べていた。ムバウの豆が、この季節の彼らの食生活において重要な位置を占めていることは疑いなかった。
 茹でたムバウの豆は、湿った硬い石けんを咬むような歯ごたえで、美味とはいいがたかった。しかし、キャッサバなどの農作物とくらべて、格段にまずいとも思えなかった。もう少し時期が遅くなると、水辺に落ちた豆が水分を含んでふやけてくる。それを臼でついてダンゴのようにして食べるのがいちばんうまいと、ムブティは口をそろえていう。

 このとき採集したムバウの豆を日本にもち帰って、栄養分析をしてもらったところ、乾燥重量100グラム中に、353カロリーもの熱量を含むことがわかった。これは米や麦など、われわれの主食となる穀物にまさるとも劣らない栄養価である。
(前掲書p31〜33)
このムバウの豆はムブティにとって重要な食料源であるが、いうまでもなくそれは農作物ではない。自然物を採集したものである。人類史上で農耕の開始は約1万年前とされるが、そのはるか以前からヒト(大型類人猿のうち二足歩行するもの)は出現しており、数百万年間もの長い間、採集−狩猟を行っていたと考えられるが、そういう人類史的な長時間の間、「ムバウの豆」は採集の対象として毎年稔り続けていたとしてよいであろう。おそらく、人類史的な時間をはるかに超えて長く、ヒト以外の多種の動物の食べ物ともなってきたのであろう。
もちろん、「ムバウの豆」はイトゥリの森の豊富な食料の1例に過ぎない。上で引用した調査行の際だけでも、「森のピーナッツ」といわれる堅果類、果肉の豊富なフルーツ類、ヤマノイモ類などを記録している。
イトゥリの森にはけっこう食物が多いことがわかる。ムブティの植物性食物を調査した丹野正氏によると、ムブティは少なくとも、11種の根茎類、18種の堅果類のほかに、18種の漿果[液果とも。ブドウ・トマトの類]、5種の葉、23種のきのこなど、合計78種の野生植物を食物としているという。今でこそ、彼らの食物の多くを農作物が占めているが、農耕民との接触以前には、、野生植物に依存して生活していたに違いない。イトゥリの森に、これだけ変化に富む植物性食物があるということは、その頃の彼らの生活が、けっして厳しいものではなかったことを示唆しているといえよう。(同前p34)
市川によると、イトゥリの森に農耕民が移入をはじめたのは3,400年前といわれているという。スーダン系のレセ族とか、バントゥー系のビラ族・ンダカ族など。ムブティらは農耕民から「農作物」や矢じり・槍・ナイフなどの「鉄器」をもらい、農耕民はムブティから蛋白源として「獣肉」や森林を開く労力などをもらった。ムブティと農耕民の「共生関係」が成立したと考えられている(p39〜41)。
現在のムブティの食物の大半は農作物である。(雨期などに)ペース・キャンプに滞在するムブティは、近くの農耕民の畑に手伝いにいって、その日の食物を得る。森のキャンプに移動して狩猟する時期には、獣肉と農作物を交換する。このように、農作物は労力あるいは獣肉などの森の産物と交換するのが原則である。(同前p41)
ムブティと農耕民の間には経済的な「共生関係」が成立したが、しかし、その民族同士の関係が“対等”な関係かというと、そうではない。農耕民はムブティに対して、儀礼や社会組織などの“上部構造”についても影響をあたえるべく「指導」を試みた。
現実的な(考え方をする)狩猟民のムブティが、彼らの生活様式に合わない社会制度や宗教になじんだかどうかは疑わしい。しかし、少なくともたてまえとしては、ある程度は受けいれざるを得なかったにちがいない。ムブティの社会組織や儀礼には、たとえば割礼などのように、農耕民から借り入れたとしか考えられないものがかなり多いのである。(p42)
「ンクムビ」(割礼をともなう少年の成人式)の始終をムブティ側にいて記録したターンブルの『森の民』には、「たてまえとして」この儀礼を受けいれて「村」の習慣に従って行う、ムブティの“面従腹背的な”心理的態度が詳細に述べられている(『森の民』第12章「村の成人式と魔術」)。

“上部構造”が農耕民の影響を受けているという点でもっとも目覚ましいことは、アフリカ各地のピグミー諸族が、例外なく彼ら固有の言語を持たずその接触する農耕民の言語を借用しているという点である。サバンナの原住民であるブッシュマンが固有言語を失っていない点と比較すると、対照的である。


《10−2》  ―― 動物食・植物食・雑食 ――

ムブティの生活 から、農耕民から受けた影響と思われるものをできるだけ取り除いていくと、《狩猟採集とは、どういうことか》という本章の課題にいくらかでも接近していけるのではないか。

定住することと農耕とはほとんど重なっている。農耕以前の生活は、移動生活をしつつ採集するということに必然的になる。採集生活は、その基本は雑食である。なにが採集できるかは、基本的には自然任せとなる。その場合、自然=環界と人類の関係は、植物性食料を採集する・動物を狩猟するという関係である。
人類はもともと雑食性(オムニボラス)だといわれる。各種の植物をはじめ、肉、卵、虫などを何でも食べた。この伝統をもっとも忠実に守っているのは狩猟採集民である。狩猟採集民は家畜の飼育や植物栽培のような自然をコントロールする術をまったくもたない。彼らの食生活は変動する自然に委ねられている。このような不安定な生活をおくる彼らは、日頃からできるだけ多様な食物を利用する習慣をつけておいた方がよいともいえる。これに対して、自らの手で食糧生産をおこなう農耕民や牧畜民の食性は、多かれ少なかれ特殊化してしまっている。(同前p110)
採集と狩猟の人類史的な前後関係を決めることはむずかしいが、植物的食物の採集のほうが容易であり、安定的な食物確保であった、と考えてよいだろう。この条件は数百万年前のヒトの発生当時から変わっていないのではないか。
市川光雄はつぎのように述べている。
 ここで、狩猟と採集の効率について比較してみよう。クン・ブッシュマンを調査したリーによると、単位時間あたりに、狩猟では1人平均約800カロリーしかうることができないが、採集だと2000カロリーを得ることができる。つまり、狩猟では採集の2分の1から3分の1程度のカロリーを得ることができるにすぎない。
 また、植物の採集は安定した収穫を期待することができる。植物の分布は定まっており、動物のように逃げだすこともない。ある時期にある場所へゆけば、必ず一定の採集品があるという信頼性をもつのが採集活動の特性である。したがって、毎日の生計を維持するという点からみれば、不安定な狩猟よりも、安定した採集の方が一般にはずっと重要である。

 狩猟採集民というように、「狩猟」の方を先にもってくるが、植物性食物を食生活のベースに置いている例の方が多い。とくに、低緯度熱帯地域の狩猟採集民のほとんどすべてが、植物食の採集により強く依存している。たとえば、クン・ブッシュマンでは植物食対動物食の比はほぼ7:3である。東アフリカのサヴァンナの狩猟採集民ハッザ族の場合、この比は8:2である。マレー半島のネグリートであるセマン族もほぼ8:2で植物がおおきなウェイトを占める。(同前p113〜114)
植物食対動物食の比率は、環界にある植物の食料供給力と関係していることは当然で、たとえば、植物性食物のない極地のエスキモーが、肉や魚だけで生活しているのは、よく知られている。植物も動物も豊富に多様に存在している低緯度熱帯地域において、植物食のウェイトが高いということである。

ムブティの場合、市川が観察していたバンドのある月の植物食と動物食の消費量の実際は1人1日あたり、植物食0.7〜0.8s、動物食0.48sだったという。すなわち6:4であった。このときの植物食というのはほとんどが獣肉との交換で手に入れた農作物である。
ムブティはその気になれば安定したネット・ハンティングの獲物を主食として生活してゆける。それにもかかわらず、彼らは食物の6割までを農作物に依存しているのである。ムブティにそのわけをたずねると、肉ばかりでは腹がおかしくなる、という。彼らもやはり、人類は環境条件さえ許せば植物性食物をベースにするという伝統を受けついでいるのである。(同前p115)
動物食と植物食、あるいは、狩猟による食料と採集による食料という2分法がすこし雑すぎるのかも知れないが、現在も生存している狩猟採集民の食生活から、つぎのように狩猟採集時代の人類の食生活を推論することは可能であろう。
人類は狩りをするサルだなどといわれる。しかし、熱帯地方(低緯度地帯)に誕生した初期の人類の食生活の基盤は、狩りによって得た獲物ではなくて、採集によって得た植物であったにちがいない。(同前p114)
動物食と植物食2分法が雑すぎるとすると、第3の分類にはいるのが、シロアリ・昆虫食である。とくにムブティの場合は蜜蜂採集がとても重要である。(市川前掲書では、「シロアリ採集」として節をたてて、詳細にその実際を示してくれている、p100〜105)

イトゥリの森に花が咲き出すのは乾季の終わり2月末からで、5〜6月までがムブティたちの蜜蜂のシーズンとなる。もちろんハチミツをとるのである。この広大な森の大樹に一斉に花がつくのは想像するだけですごいが(たとえば、大雨が降るたびに森の地表は「テンプやシーツの花が白いじゅうたんを敷いたようにつもる」(p180)と、市川は書いている)、そこを蜜蜂たちはうなりをあげて飛びまわる。大樹の高い位置につくられる巣を発見し、そこへ登っていくのはムブティたちの独壇場である。
蜂蜜はムブティがもっとも好む食物である。彼らは交易人が持ち込む米やブガリなどの食物、そして布地などにも強い関心を示す。しかしどんな品物も、蜂蜜に対するムブティの執着を絶つことはできない。蜂蜜こそは、彼らの真の食物なのである。「蜂蜜があるからこそ、われわれは森を離れることができないのだ」と、彼らはいうのである。(同前p181)
エコ(という樹木)の森のなかに作られた、ハチミツ採集のキャンプを訪れたときのこと。
マモクワリ(地名)のキャンプには、サランボンゴの家族のほかに、カロンゲ(というバンド)からブライムとシンガがそれぞれ家族をともなってきいていた。そのほか1人で来ている大人や少年たちを入れると、全部で23人が3つの小屋に分かれて住んでいた。キャンプでの彼らの主な食物は蜂蜜である。蜂蜜はこのキャンプでの彼らの食生活において、重量にして約70パーセント、カロリーではなんと80パーセント以上という大きなウェイトを占めていた。(同前p183)
わたしなどにはちょっと想像できないことだが、ムブティたちには、蜂蜜が実際に“主食”になっている時期があるのである。(なお、この蜜蜂シーズンは蜜蜂を求めて森の奥に自由に入っていくので、上引のように、通常の狩猟キャンプとは違った雑多な人の混じったキャンプとなる。そのことにも、ムブティたちがハチミツに夢中になっている様子がうかがわれる。)

農耕・牧畜の開始以前の人類史を「狩猟・採集」段階と考えておく。その段階の食生活は、植物+動物+雑食と、いちおう、3分類しておくことができそうである。
雑食には、ムブティのように昆虫食を入れるのはもちろんだが、縄文期の日本の大規模な貝塚のように、干潟のある海岸の採集民の場合は、また特別に考えることができるのかもしれない。雑食という語感から誤解が生じやすいが、かならずしも、それが“補助的”な食料であることを意味しないし、それがその狩猟・採集民族の特徴(文化的特徴)をもたらす可能性さえある。

一般に、漁猟は、人類史の中でどのように位置づけられるか。船、海とのかかわり(天候・海流・回遊魚種などの知識)。さまざまな漁具の工夫。鮭鱒漁に関しては、その季節性と、川にきわめて大量な鮭鱒がさかのぼっていたことなど、一般的な漁猟的な理解とは違う側面があるように思う。
エスキモーたちのような海獣猟はまた独特の世界があるのだろう。捕鯨猟もある。

ムブティの食生活で、最後に引用しておきたいことは、彼らが基本的に食料を備蓄しないことである。食生活は「その日暮らし」であって、明日のことは明日の猟に期待するのである。
ムブティの料理法を見ていて興味深い点は、彼らが自分自身で消費するために食物を保存するということがほとんどないことだ。交易にまわす肉は焚き火などを使って乾燥させておく。しかしゾウなどの大動物が倒された場合を除けば、ムブティが食物を保存のために加工することはほとんどないといってよい。その日にとれた獲物はすべてその日のうちに調理して、あらかたを食べてしまう。肉などが余ったら、翌朝それを温めてふたたび食べる。いずれにしても獲物はこうして一両日のうちに平らげてしまうのである。(p117)
したがって、獲物が豊富なときは驚くほどの大食をするが、逆に何日も空腹を抱えている、という場合もあるという。(交易で手に入れた農作物について、どのようにするのか、記述がないようである。おそらく、キャンプが1ヶ所に留まっている間に消費する、などのことがあると思う。)


《10−3》  ―― 平等社会・互酬性 ――

ムブティたちと付き合い、実際に生活を共にしたひとたちが異口同音にいうのは、彼らの人間性が明るく陽気で、歌と踊りが好きで、平等主義と互恵性の社会である、ということだ。
“男女の平等”は森の中での狩猟採集生活は、男の役割も女の役割もそれぞれお互いに必要欠くべからざるものがあって、平等たらざるをえない。ターンブルが「姉妹交換結婚」の制度を引き合いに出して、ムブティの社会の男女平等を説明しているところを引いておく。
森で生きていくには、女は必要不可欠な伴侶なのだ。妻をもたずには狩りをすることもできないし、料理を炊ぐ火もない(ターンブルからの長い引用に出てきたが、女がいつも火種の燠を木の葉に包んで携帯する)。小屋をつくったり、果実や野菜を集めてきて、それを料理してくれる妻がなければ、男は森でどうやって生きていけよう。だから娘を嫁にやれば、その家族は代わりの女を探すのである。(『森の民』p179)
ある男が別のバンドの娘と結婚する際に、自分の妹をその結婚相手の兄と結ばせる、というのが「姉妹交換結婚」で、結婚条件がとても厳しくなる場合がある(ただし、ここでいう「兄」や「妹」は広義のもので、融通はきく)。そうすることによって、バンドの男女比が偏りすぎることがなくなる。

ムブティ社会の「平等性」や「互恵性」については、市川光雄がネット・ハンティングのルールを細かく説明してくれているので、よく分かる(前掲書の「第2章 狩猟の季節」)。
ネット(狩猟用の網、蔓を編んで作る)は家族単位で所有している。所有していない者が他人の網を借りて狩りに参加することも可能である。十〜十数枚のネットを森の中に張りめぐらせて半径150〜200mほどの地域を囲う。男はネットのそばに槍をもって待機している。女たちは“ネットを欠いた入口”から入って、勢子になって動物を追い立てる。動物がネットに掛かれば男たちが行ってしとめる。こういう狩りを、朝から晩まで、日に10回ほど繰り返す。

捕らえた獲物は、原則として掛かったネットの持ち主のものである。ネットの位置によって、獲物が掛かりやすいところと、掛かりにくいところが当然ある。入口ちかくは(そこから勢子が追うのだから)掛かりにくく、入口の向かい側の奥まったネットが掛かりやすい。そのために、狩りのたび毎にネットの位置をズラして、不公平のないようにする細かいルールがある。詳細は省くが、市川光雄は「少なくとも個々の人間の捕獲を不均等にするような制度ないし習慣は何ひとつ認められないといってよい。ムブティのネット・ハンティングはこのように徹底した平等主義の原則の上に成り立っているのである」と述べている(p75)。

前述のように、獲物は原則としてネットの持ち主のものになる。が、捕獲する際に貢献があった者、運搬を行った者など、それぞれの貢献に応じて分配されることになっている。これについても、詳細な取り決めがある(p75〜76)。この分配はルールが厳密に決まっていて、それに従って“義務的に分配される”のである。
以上のような義務的な分配を第1次の分配と呼ぶことにしよう。第1次の分配は、いわば、狩猟において各人が果たした役割に対する報酬のようなものである。人類の交換の形式について考察した人類学者のサーリンズの定義によれば、このような分配を均衡的互酬性と呼ぶことができる。(市川前掲書p76)
「第1次の分配」のあと、バンド内では、「インフォーマルな」互酬が行われる。それは、われわれが知っている普通の意味の互酬(互恵)である。
第1次分配に続いて第2次の分配が行われる。こちらは、どの部分を誰に分配するという規定もなく、ずっとインフォーマルな分配である。その日、獲物もなく、第1次分配にあずかるような働きもなかった者は、獲物解体の現場にいって肉の所有者から分配を受ける。あるいは、すでに第1次分配をうけた者から再分配をうける。第2次分配をおこなうかどうか、またそれをどのようにおこなうかは、肉の所有者の自由である。所有者は、肉を農耕民のところにもってゆくこともできる。キャンプに肉の交易人がきているときには、布地や食物と交換することもできる。しかし肉がキャンプで消費される場合には、例外なく第2次分配がおこなわれる。よほど肉が少ないときでなければ、こうした第1次と第2次の分配によって、獲物はほぼバンドの全体にゆきわたるのがふつうである。(p77)
既述のように、ムブティは肉を保存・備蓄して、少しずつ食べるということをしない。彼らの食生活は「その日ぐらし」が原則である。そういうことが基盤になって、「第2次分配」が実現している。
ムブティは、同じバンド内で、ある人がたくさんの肉をもち、他の人がまったくもたないときには、それを配分するのが当然だと思っている。こうした意識に基づいておこなわれる分配を、サーリンズは一般的互酬性と呼んでいる。

ムブティは第2次分配をおこなうときに、けっして何の見返りも期待しないというわけではない。長い猟期の間には、自分の方に不猟が続くこともある。そういうときには、自分が逆に分配を受けることができる。このようにして分配を繰り返していくうちに、適当に収支のバランスがとれてくるだろう。そういう漠然とした想定にもとづいて、ムブティは分配をおこなっているのである。(同前p79)
“村の長老”が分配を取り仕切ったり、“狩りの名人”が狩猟の指図をしたりというような、固定的な社会組織が存在しないことが重要である。社会的な平等主義が貫徹しているのである。
ムブティのバンドを構成する個人の社会的差違は、性別とおおざっぱな年齢にもとづく区分があるだけである。男性の結束によって維持されているムブティのバンドの統合は、このような生物学的基盤にもとづく最小限の差違のみを前提にして成立している。特定の個人または小数の特権階級の権力によって統合される社会とは対照的なこのような社会を平等社会と呼ぶことができよう。ムブティのバンドの結束の要となる男たちをとってみても、彼らは、経済的にも社会的にも、原則として対等な存在である。誰ひとり集団の名において特権を享受し、権力を行使する者はいないのである。(p208)

ムブティたちの社会のもっとも大きな社会単位はそのバンド(狩猟集団)である。バンド単位でキャンプをつくって住み、森の中を移動する。森の中にはバンドごとに一定のゆるいテリトリーが存在している。
バンドはいくつかの家族でできているが、その十前後の家族は、任意の家族が偶然集まっているというのではなく、多くは父系集団(バナマ)を中核としてまとまったものである。
子供が生まれると、その子はその父系集団に属する。ひとつの父系集団はンギニソーというひとつの動物をトーテムとして持ち、その動物を食べてはいけない、というような規制がある。しかし、ムブティの場合は、「祖霊信仰」のような儀礼はまったくなく(観念もない)、ンギソニーはせいぜい自分のバナマ(父系集団)のアイデンティティを確認する程度の意味しかない。

ムブティたちの間では呪術は存在しない。狩猟採集社会は呪術以前の社会である。呪術は農耕社会以降の“環界に働きかけることによって、何らかの変化をかちとり得る”という思想(わたしはこれを文明の思想と言っていいと思う)が前提となって、はじめて可能である。
ムブティの社会にも「原因−結果をむすぶ論理」はもちろん存在する。ムブティにとっての環界は、“そこから食料を手に入れるところの世界”以上ではない。しかも、その食料は“今日の食料”であって、保存・備蓄を考えていない「手から口へ」の意味の食料である。そういうムブティにとって、病気・怪我・死などの「不幸」のもたらされる「原因−結果をむすぶ論理」は、“悪いものを食べたから”というものである。
その悪いものは、ンギニソーの他に、「クエリ」や「エコニ」などの食物の規制がある。クエリは乳幼児をもつ両親に対する規制、成長するに従って増減のある規制(割礼の成人式の頃が一番厳しい)など、すべてで50種にもなる食物が対象になっている。これらは、発熱・悪寒・発疹などの病気の原因になったり、目が潰れる、疳の虫の原因など。本人の発病もあるが、むしろ、その子供が病気になるというのである。エコニは26種あり、妊娠中の両親が守るべきこと。違反すると奇形の子供ができたり、難産となったりする。
 ムブティが熱病にかかったり下痢をおこしたりした場合は、まずそれらの病気に効くといわれる森の植物の煎じ汁を飲んだり、小さな切傷をつけて放血をして治そうとする。
それでも治らないときには、彼らは病気の原因について、最近食べたもののなかに何か悪いものがなかったかと考えるのである。もし彼がクエリの動物を食べていたことに思いあたると、この病気はそのクエリのせいにちがいないと考える。そうなると、もはや煎じ汁などの通常の頭痛や下痢に対する処方では効果がない。クエリによってもたらされた病気には、症状に対してでぱなく、病因となった動物に対して働きかける治療法以外には方策はないのである。そして一般には、つぎのような治療法が試みられている。
 、病気をもたらした動物の体の一部(毛、皮、骨など)をけずった粉かそれを焼いた灰を、体に小さな傷をつけてすり込む。またはこれらの小片に、ひもを通して体につける。
 、その動物が食べる草や木の実を粉にして体にすり込む。またはそれをいぶして、その煙を病人にあてる。草の場合にはそれを揉んで、その汁のにおいを吸い込む。
 、その動物の巣や、それがいたところの土を同様にして体にすり込む。
 これらの治療法は、いずれも同種療法の原理が応用されている。使用される「薬」は、いずれも病気をもたらした動物の一部か、またはそれと近接もしくは同化によって結ばれているものである。(同前p128)
通常の薬草などによる治療では効かない場合は、クエリなどが指示する原因食物に対する「同種療法」を行う、というのである。呪術・呪術師のいる農耕・牧畜の世界にくらべて、ムブティたちの「呪術以前の世界」は、即物的で単純であるといえよう。
 病気の原因を他人の恨みや嫉妬に求めるためには、それなりのもっとこみ入った人間関係が前提となろう。複雑な人間関係が生み出す軋轢は、たしかに他人の不幸を願う邪悪な心の培地となろう。しかし、ただそれだけでは呪術は成立しない。呪術の成立には、社会を人間の身体のような有機体のイメージで捉えることが必要なのであろう。社会を身体にたとえると、社会秩序や人間関係における齟齬は、人体における病気のようなものだと考えることができる。呪術はこのようなアナロジーの上に成り立っているのであろう。
 だがムブティの社会は、身体にたとえうるほど組織化されたものではない。彼らの社会には、地位や明確な役割の分化もなく、原則的に一人一人は平等である。また、数十日ごとに移動を繰り返すキャンプ生活は、人間関係の不平不満の蓄積を抑止する機能をもっている。人間関係に深刻な軋轢が生じそうになれば、その渦中にある家族は、しばらく別のキャンプに移って暮らすこともできる。このような単純な社会は、呪術を生む培地にはなりえないといってよいであろう。

 呪術は、病気や人間社会の確執などを、人間の手によってコントロールできるという確信に支えられている。このような考え方は、いかにも植物栽培という自然の人為的制御をおこなってきた農耕民らしい発想である。動物や植物の繁殖過程に介入することのないムブティには、このような発想はない。彼らは誰ひとりとして、クエリやエコニの力を操って、他人を病気にすることができるなどとは考えていない。クエリやエコニはただ、「食べる」という行為によって病気をもたらすのであり、それに対処するには「避ける」という方法以外にはないのである。(同前p137)
「衣食住」のうち、ムブティの生活では「食」の要素の比重が、他の「衣」と「住」に比べてとても重要であると感じられる。おそらく、狩猟・採集時代の人類にとってもそうであったのであろう。

上引でもすこし触れられていたが、移動生活そのものに意義がある、という考え方がありうること、市川光雄は、さしたる理由もないようなのに、ムブティたちは突如キャンプを移動してしまうことを体験して、次のような感想を洩らしている。
われわれなら、移動がたとえ大きな労力をともなわなくても、移動すること自体を億劫に感じる。「住めば都」というように、自分の住まいに対する愛着もあるだろう。だがこれは、定着生活者の感覚なのだ。ムブティにとっては、むしろ移動することの方があたりまえなのである。このような移動生活のルーツは、おそらく真猿類の遊動生活にまで溯ることができるだろう。(同前p153)

 従来、狩猟採集民の物質文化が貧弱なのは、彼らの生活が困窮しているためだといわれていた。毎日、食料探しに明け暮れるために、豊かな物質文化を生みだす余裕がないのだとされていた。しかし、近年の狩猟採集民についての詳細な研究から、これは完全に誤った考えであることが明らかになった。ブッシュマンやオーストラリアの原住民などが、生計活動に費やす日は、極端に短かったのだ。彼らはむしろ、ありあまるほどの余暇に恵まれた人々だったのである。
 彼らの物質文化が貧弱なのは、移動生活に対する適応なのである。狩猟採集民の多くは、人力以外の運搬手段を持たない。くり返しキャンプを移動しなければならない人々にとって、直接自分の背にかつぐことのできる以上のものは、文字どおり余計な荷物なのである。(同前p154)」
環界に働きかけることを知った人類は、農耕・牧畜の段階に入っていく。それを文明といっていいだろう。殊に、動植物の生殖・繁殖過程に働きかけて、「食」を豊富に・計画的にすることに成功した。定住ないし備蓄によって「文明社会」を作っていった。

「ありあまる余暇」の代わりに、努力・勤勉・我慢を倫理として「ありあまる財貨」を求めることになった。人類が文明化によって失ったものは何だったのか。

第3章 おわり


第1章:超可聴音 第2章:数について 第3章:狩猟採集 第4章:大脳 第5章:手話

本論 Top  き坊のノート 目次



inserted by FC2 system