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第六巻 12
「評判、評判!」という賑やかしの懸け声は今は聞かれないが、大正の頃?の例か「浅草の文公」を第7巻43で扱っている。 江戸時代の賎民を大別すると「穢多(長吏)」と「非人」であるが、それ以外の特別なものとして「猿飼(猿廻)」があった(違う意味で特別な「乞胸」については「願人坊主」参照のこと)。 猿は馬を飼う際の健康を「祈祷」するまじないの動物として古くから特別な存在であった。中世以降、武家の時代になり猿を扱う猿飼が毎年必要な時期に厩において祈祷を行うことが恒例となった。すなわち、猿飼の「芸」の対象はもともとは武士に対するものであった。 それが江戸時代中期以降には、広く「芸能」として一般庶民にも親しまれるようになる。歌舞伎に取り入れられたりもした。江戸の猿飼たちは、長大夫・門大夫という二人の江戸城へも入ることを許される猿曳が特別な存在であったことは、想像できよう。長大夫・門大夫という猿飼頭の上には、江戸の賎民全体を統括する弾左衛門がいたことはいうまでもない。 「猿曳」、「猿廻」は『世渡風俗図会』に、この「猿の曲芸飴賣」を含めて5回扱われている。そのまとめは巻六-58「猿廻し」を参照のこと。 |