ニコライ堂から見た明治22年1889の「秋葉の原」。神田川が左下から右上へ流れており、手前中央が万世橋(眼鏡橋)。右辺中央に昌平橋が半分だけ見える。そこで神田川はやや左折し、その先に和泉橋がみえる。(写真は、ウィキペディア「秋葉原」より)
筋違橋(ほぼ写真の万世橋の位置にあった、筋違御門の橋)の上流側にあった昌平橋が明治6年の洪水で流されたが、神田川がやや左折する位置に鉄橋が架けられ、それを再び昌平橋と名付けた。それが写真に半分だけ写っている橋で、有料で「橋銭」を明治20年まで徴収した。この昌平橋は明治33年1900に(新)万世橋と改称され、さらに明治36年に、アーチ橋の万世橋に架け替えられた(これが現代の万世橋の位置である)。上の写真の万世橋(眼鏡橋)は、元万世橋と呼ばれたが、明治39年に撤去された。
ニコライ堂は東紅梅町の「ロシア公使館付属地」につくられ、起工は明治17年で竣工は24年であった。(本節末に用意した地図にはその位置を記入してある。)
ギリシャ正教会の大聖堂ができるというので、建築中から大評判になったようである。明治21年(1888)8月14日の朝野新聞には皇居を目の下に眺められるというので「猥に登ることを禁じる」という記事が出ている。
ニコライ教会堂 ○神田区駿河台西紅梅町なる同教会堂は、本年中に外部の構造出来する見込にて工事を取急ぎ居れりと。又同会堂頂上の足代(あししろ 足場)に登れば皇居御造営を眼下に瞰(のぞ)むに付、猥に登ることを禁じたる由
ニコライ神父の名前から通称「ニコライ堂」と言われているが、建設中からすでにニコライ堂・ニコライ会堂などの名で呼ばれていたことが分かる。この記事中の「皇居御造営」というのは、江戸城からの改築の工事のことで、同年10月に完成すると新皇居を今後は「宮城 きゅうじょう」と改称した。
次図は「足代」を組んで建築中のニコライ堂の写真であるが、『新聞集成明治編年史7』の「ニコライ会堂頂上から皇城俯瞰」(上引記事)に並べてあるもの(朝野新聞の記事写真ではなく、『明治編年史』を編集する際に「男爵岩崎家所蔵」の写真を使用したものと考えられる)。
上引記事の約一年後、東京日日新聞(明治22年6月15日)が、建築中のニコライ堂に登ってみて、“皇居の中が丸見え”などは余計な心配であるという報告をしている。
ニコライ氏の教会堂 ○先頃駿河台なるニコライ氏の新築教会堂よりは、宮城を一目に見下ろされて
不都合なりなんどの噂さ喧しかりしより、此程社友がわざわざ右の実否を確かめんために教会堂に到り足代に登りて一見せしに、(中略)
さて噂に従って畏(おそれ)多くも宮城を拝観し奉るにたちまちその誤れるを見る。宮城は丸の内に在りて濠をめぐれる二重の石垣其間に在るを以て宮殿はこれに蔽はれ只だその屋根を遥に望むのみ、城内の位置は決して見る可らず一目に見下すなんどとは全くの虚言なり。かつ今見たる所にては足代の絶頂にて鐘楼の窓は此より低く四五間を下がれば,その眺望はなほ縮小す可し、前日の風説の如きは全く無用のものなり。世人安心して可なりと(かの社友)来社して物語りき。
なお、ニコライ堂の開堂式は明治24年(1891)3月8日に行われ、東京日日新聞は「巍然たる偉容、帝都を圧す」と記している。関東大震災(大正12年1923)では、鐘楼が倒壊しドームが破壊した。火災の被害もあった。耐震を考慮して改修が昭和4年(1929)までに行われた。第2次大戦の際は、在米のロシア正教会の働きかけなどがあり、東京大空襲などの戦災を免れた。
(1・5) 秋葉原線 TOP
明治政府は当初から北海道開拓に熱心であり(明治二年に開拓使を設置)、北への鉄道を延ばすことは西へ延ばすのに負けず熱心に行われた。上野-青森間の開通は明治24年1891で、東海道線の新橋-神戸間の開通は明治22年である。明治10年代から行われた日本列島各地の鉄道工事は、その工期の短さに驚く。当時「鉄道熱」という語もあったそうである。
明治前半のわが国の主要な輸出品は絹であり、北関東で生産された絹を横浜へ輸送する鉄道敷設が急がれた。それで、東北方面-高崎-赤羽と南下してきた鉄道は東京西郊を品川に接続され、横浜へつながった(明治18年1885、今のJR京浜東北線である。山手線が環状に完成するのはずっと遅く、上野-神田が結ばれたのが大正14年1925である。ついでに、東京駅が開業したのは大正3年1914)。
東北地方や北関東から東京へ入る乗客と貨物が捌ききれず、上野駅が大混乱となっていた。構内だけでなく牛馬車や大八車、さらに人力車が加わって駅周辺が混雑を極めていた。そのため、貨物の専用取扱駅を「秋葉の原」に設置することになった。秋葉の原と神田川を運河で結び、江戸時代から発達していた水運で貨物を捌く計画である。この貨物線(上野-神田佐久間町河岸間)の認可は明治20年11月に「日本鉄道会社」に下りている。
(日本鉄道会社に対して)鉄道局は、人家の密集と交通の頻繁から、蒸気機関車による沿線火災防止のための高架線にすることを条件に許可した。しかし、沿線火災の不安から東京市会はその認可取消を主張し、住民の間にも建設反対運動がひろがったが、その間にも(地平鉄道の)工事がすすめられ、明治23年(1890)11月に秋葉原線として開通した。
(『東京百年史』第二巻(東京都 1979 p1054 下線は引用者)
「地平鉄道」とは高架鉄道ではない通常の地表に敷設された鉄道のこと。下谷区民は交通危険を訴えて烈しい反対運動を行った。
○日本鉄道会社が上野停車場より神田秋葉原に達する地平鉄道を敷設する事に付ては、是れまで下谷区民中頻りに苦情を唱ふるのみならず、東京市会及び市区改正委員会等にても、其の不利なる旨を具して其筋へ建議したる事ありしが、日本鉄道会社にては俄然先頃より同線路軌道布設に着手し、昼夜を兼ねて工事を取急げる模様なるにぞ、同区民は之を見て非常に激昂し、既に一昨十九日は有志総代として鈴木信仁金枝義惠の両氏が山県総理大臣に面会して縷々其の事情を具陳し、大臣よりも種々懇話ありたる由。(朝野新聞 明治23年4月21日 下線は引用者)
下谷区民代表が山県有朋・総理大臣と掛け合ったが、政府は敷設許可を出しているのだから山県はむしろ説得にあたったということだろう。
もうひとつ、事例を挙げておく。京橋区治安裁判所で行われた審議で所長・帆足判事の発言。
元来被願人(日本鉄道会社)に於ては、たとえ政府の許可ありたるにもせよ、下谷区三千六百有余人有志者等より廃鉄道の請願書を差出し居り、かつ区会市会等の決議の趣をも知りながら、断りなく工事に取り掛かる等のことは穏かならずと説諭あり
(毎日新聞 明治23年5月25日)
しかし、日本鉄道会社はかまわず地平鉄道として工事を進め、完成する。
延長1哩15鎖(1911 m)とす。該線は市街地を通過し道路を横断するを以て、踏切木戸の設置十カ所の多きに及へり。
(『日本鉄道史』(上 p728)鉄道大臣官房文書課編 大正10年1921)
2㎞足らずの区間に10個所の踏切ができた。当時の人々は馴れぬ踏切に驚いたことであろう。会社は踏切ごとに踏切番をつけた。「下谷の地平鉄道は、踏切ごとに立番の設けも出来、扉等をも取つけ」て明治23年11月1日に試運転が無事行われた(朝野新聞 同年11月5日)。
この「秋葉原線」が完成してもっとも利益を得たのは日本鉄道会社よりも「荷主」たちであったと、なかなか穿った面白い評が出ている。この新聞記事は開通して半年後である。
上野秋葉原間鉄道開通後の結果
○開通の際一時非常に世間の攻撃を蒙りたる同鉄道は、其後頗る好結果を呈し、同線路の開通以来地方より輸送し来りたる貨物、ことに野州薪炭の如き容量の大なるものも、手狭なる上野停車場構内に積み置き貨物取扱上の邪魔物となることなきのみならず、従来牛馬の力を藉りて運搬し高価なる賃銭を拂ひたるものをば神田河岸より舟に積み替へ直ちに本所深川等へ転漕するを得る都合にて、荷主の利益一方ならず、
又東京より各地方に積み送る貨物も同様市内運賃の節減を為し得るを以て市内の問屋も亦便利を感ずること尠からざる由、
されば昨今の不景気なるに拘はらず同社の営業上昨年に比して左程の影響を蒙らざるも此の新線路の開通與りて力ありといはんか、元来同会社が割合に多額の費用を投じ、輿論攻撃の焦点となるを顧みず断然開通の運びに至りたるは、其実会社の利益を図らんが為にあらずして亦唯荷主の便益に注意したる迄なりといへり。
(朝野新聞 明治24年4月19日)
このようにして、秋葉の原に「日本鉄道会社荷物取扱所」が設けられ、新駅が「秋葉原」と名付けられた。この段階で「秋葉の原」はその短い命を終わったとしてよいであろうが、駅名に使われたため秋葉原という地名は残ることになった。そして、今や「アキバ」は世界中に知れ渡っている。
神田川から「秋葉の原」へ掘割を開削し、上野駅からの貨物線は江戸以来の水運と接続された。右の地図は明治40年(1907)1月の東京郵便局作製で、作図は正確なようである。(この地図の神田川にかかる橋は左から昌平橋、元万世橋、万世橋、和泉橋。明治17年の地図と比べると、昌平橋と万世橋の位置が逆転しているので混乱しそうだが、これで誤りではない。ちょっと上で述べたが、この地図の昌平橋が明治33年に出来たときに、眼鏡橋(万世橋 万代橋)を元万世橋、昌平橋を(新)万世橋と改称した。「番地入東京市神田区全図」、日文研所蔵地図サイトより)。
東京の「市街電車」は明治36年に始まったが、それによって馬車鉄道は速やかに衰退した(明治37年中に消滅した)。この地図に見られるように数年のうちにすでに市街電車網が発達していたことが分かる。
夏目漱石『三四郎』(明治41年)で熊本から出て来た三四郎が,東京で驚いたものの随一に「電車がちんちん鳴るので驚いた」と言っていた。また、与次郎には「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回す」ことを冗談半分に勧められる。
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