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目次

章.節秋葉の原
1.1神田の佐久間町
1.2万世橋
1.3秋葉の原
1.4ニコライ堂
1.5秋葉原線
章.節佐竹の原
2.1佐竹氏と佐竹屋敷
2.2高村光雲の大仏
2.3台風襲来
2.4「佐竹の原」から「竹町」へ
2.51 砲兵工廠と調練場跡
2 砲兵工廠の関東大震災
3 有馬屋敷と薩摩屋敷
2.6おわりに





(1) 秋葉の原(あきばのはら)


  (1・1) 神田の佐久間町

神田は古い地名であるが、神田川の外側(江戸城から見て外側。北側)に飛び出している地域を外神田という(神田区があったのは、明治11年1878~昭和22年1947で、現在は千代田区神田)。既述のように、清水晴風は外神田の旅籠町一丁目の旧家に生まれた。その外神田で明治二年(1869)十二月に相生町から出火して大火災となった。この周辺には火事が多かったので、この火事の延焼地域を中心に広い火除地ひよけちが設けられた。此付近を一口で言う場合は、神田川沿いの位置に焼け残った佐久間町の町名を代表させるのが普通のようである。すぐ下で引く三田村鳶魚えんぎょもそうしているし、その先で引く朝野新聞(明治10年4月)も「神田佐久間街に荒廃の地数千畝有り」と書き出している。下図は日文研所蔵地図の江戸圖・安政(安政六年1859)の部分図である。赤枠が佐久間町1~4丁目を示す。その上側に火事で焼ける前の相生町(アヒヲヒ丁)等が見える。


三田村鳶魚『娯楽の江戸 江戸の食生活』(中公文庫 1997)は次のように述べている。(三田村鳶魚は明治三年1870~昭和27年1952、八王子生まれ。江戸文化・風俗の研究家、膨大な『三田村鳶魚全集』全28巻を残した。なお、「娯楽の江戸」は国会図書館がデジタル公開している。ただし、中公文庫とは一部出入りがある
神田区の)佐久間町は江戸の末からしばしば火事を出すので,近傍の町から悪魔町と言われていた。明治二年の十二月十一日の夜、神田相生町あいおいちょうから出火して,同二丁目・麹町平河町代地・松永町・亀住町・花田町・田代町・山本町等、長さ二町半、幅二町余の延焼であった。翌年の五月、相生町等十ヶ町から一万二千坪余を御用地として収用し,周囲に土手を築き回し、三年閏十月十五日、秋葉社の鎮座式が行われて、広大な火除地となった。(下線は引用者
秋葉社の鎮座式が行われて」とあるのに注意して欲しい。斎藤月岑げっしん『武江年表』(平凡社 東洋文庫)と食い違いがあるのである。
去年(明治二年)十二月、外神田類焼、町の内、神田相生町外十ヶ町、正月中御用地に召上げられ、右の場所一万二千余坪の所、除火ひよけの為壘地あきちに成し置かれ、其の中央より東の方へ寄り鎮火の社御創建に成る。(中略)御造営成就して今年閏十月十五日御鎮座なり。祭神は火産霊神ほむすびたまのかみ(幹遇突智命)、罔家女神みつはのめがみ埴山毘売神はにやまびめのかみ(安殖命)、以上三神にして鎮火社と号せらる。社務は神田社にて司る。七年二月より、この所を花園町と号せらる。(『武江年表』2 p233 下線は引用者
神田明神が社務を担当し、明治7年2月から花園町という町名がついた。大変行き届いた書きぶりである。ところが次に示すように、世間では「鎮火社」であるから、遠州秋葉山から勧請したのであろうと早合点している、と注意を加えている。
斎藤月岑は明治11年に『武江年表』を脱稿し、同年3月6日に74歳で没している。世間では明治三年創建以降早い時期に、秋葉山から勧請したという誤解が生じていたらしい。
世人、当社を鎮火の社と号せらるゝをもって、子細を弁ぜずして遠州秋葉山の神を勧請ありしと心得て、参詣のもの秋葉山権現と称へて拝する人まゝあり。秋葉山は祭神大巳貴命おおあなむちのみことにて、後来三尺坊を合祭し習合の社たりしが、(以下略『武江年表』2 p233
要するに、鎮火社と秋葉山とは祭神が異なっており、秋葉山を勧請して鎮火社にしたというのは、いかにしても無理なのである。
しかし、上の三田村鳶魚をはじめ、手近の地名辞典はみな秋葉神社の勧請が「秋葉原 あきはばら」の地名起源であるとしている。
秋葉原の)地名の起源は1869(明治2)年の火災により焼跡に70年火伏せの秋葉神社を勧請し、秋葉原といわれたことによるとされる。(日本地名大百科 小学館1996

1870(明治3)秋葉神社を祭り、火除け空地を置き、秋葉ヶ原と称したことが地名の起源。本来、地元では「あきばっぱら」、現訓(あきはばら)は駅名に基づく。(日本地図地名事典 三省堂1991
これらの地名起源は、厳密に言えば誤りを含んでいるということになる。明治11年以前の著作である『武江年表』が、「秋葉山権現と誤る人がままある」と緩やかな表現をしている所を見ると、明治11年頃までには未だ「秋葉ヶ原」や「秋葉の原」と通称が広まるほどにはなっていなかったのであろうかと、推測される。

上野駅と神田川河岸の佐久間町を結ぶ貨物線・秋葉原線が開通したのは明治23年(1890)11月であり、その時点では秋葉原という地名はすでに根付いていたとして良いであろう。


  (1・2) 万世橋              TOP

次図は「東京図測量原図:五千分一」のうちの「東京府武蔵国神田区佐久間町及下谷区仲御徒町近傍」というもので、参謀本部陸軍測量局による明治17年1884の作製である(「日文研所蔵地図」サイトで公開(ここ)。小論に必要な部分を2枚貼り合わせトリミングし、色彩は強調している)。


東へ(右へ)流れるのが神田川で、橋が4つ見えるが西(左)から、万世橋、昌平橋、和泉橋、美倉橋である(昔の橋は洪水・火事・老朽化などによって意外なほど掛け替え・移動・増設など変遷が激しいので注意。上図はあくまで明治17年作製地図記載のものである)。昌平橋を渡って花房町・佐久間町がありその北側の空き地が「秋葉の原」である。空き地の中には「鎮火社」と記されており、小さな池があったことも分かる。また近くに「花岡町」という地名がみえるが、現在の秋葉原駅が神田花岡町である。
「鎮火社」や「花園町」の記載が『武江年表』とよく符合していることからも参謀本部陸軍測量局の地図の正確さが確かめられる。 この空き地の広さは地図からの概算で 310m×120mほど。この空き地右上に位置するさらに広大な敷地には「神田憲兵分屯所」、「東京府養育院」、「衛生局試験所」などの施設名が見える。後に、ここに三井慈善病院ができた。「(貧乏人は)タダで入院出来るんだ。いいお医者が揃っているんだ。だけど、金持ちはお断りを食らうよ」鹿島孝二『大正の下谷っ子』p53

上掲の明治17年の地図にある万世橋は、明治五年に取り壊された筋違見附すじかいみつけの石垣石材を利用して作られた石橋で、明治6年10月31日に完成している。正式名は万世橋よろづよばしだが、その形から眼鏡橋と呼ばれ親しまれた。また、万世橋まんせいばしの読みが広がった。
江戸時代に筋違御門のあったことからも分かるように、この万世橋(眼鏡橋)は新橋・銀座側から上野方面へ抜ける重要な地点であり、いつも通行が盛んな橋であった。 この万世橋(眼鏡橋)に馬車鉄道が通行開始したのが明治15年9月6日のことで、鉄道馬車が眼鏡橋を通る様子を描いた錦絵(歌川国利)がよく知られている。なお、東京で馬車鉄道が開業したのは同年6月25日のことである。


歌川国利「東京市街鐵道馬車萬世橋通行ノ景」、ボストン美術館(サイト
浮世絵検索」より)。国利は弘化四年1847~明治32年1899、享年53

なお、図には馬車が3台描かれているが、単線だったので行き違うことはできず、その意味では通行の賑わいを強調した空想的な図である。眼鏡橋の形状がよくわかる。図は上野側から新橋側を見て描かれている。明治17年製作の「東京図測量原図:五千分一」には、馬車鉄道の軌道は記されていない。上掲の地図範囲にはふくまれないが、新橋-横浜などの鉄道は記入されている。
小論の始めに置いた「清水晴風『世渡風俗図会』とは」の中に三代広重が明治9年に描いた同じ眼鏡橋の錦絵を掲げた ここ


  (1・3) 秋葉の原              TOP

明治二年の火事の後、突然都心に出現した1万2千坪の空き地はやがて「秋葉の原」と呼ばれるようになり、庶民大衆の息抜きと娯楽の場所として自ずと使われるようになる。そこに葦簀よしず張りの演芸場ができ、様々の芸人・見せ物・物売たちが集まり、庶民の楽しみの場となる。

朝野新聞(明治10年4月28日)に、生まれつつある「秋葉の原」の様子を伝える記事があった。しかし、いまだこの空き地は「秋葉の原」ではなく「神田佐久間町の草原くさはら」という認識であったようだ。
神田佐久間街に荒廃の地数千畝有り、鎮火の一小祠外只草藜くさアカザの繁茂するのみなりしが、客歳(かくさい 去年)府庁の許可を得て作り菊の観場を設くる者あり、其の奇功なる殆ど谷中染井の上に出ると雖ども、当時土地の寂寥なるを以て看客も亦麕集(きんしゅう、鹿が集まるように集まる)するに至らざりき。

然るに今歳に至り観場日に増加し、生人形は浅草より往き、猿芝居、犬の躍りは銀座より往き、品玉、足芸、絹糸渡り、曲馬、義太夫、新内皆場を此に開き、鳥には則ち鸚哥いんこ、孔雀、獣には則ち猛虎馴象、海外の珍禽奇獣も此に輻輳せざるは無し、盆石あり木の葉の錦あり、人を函中に盛りて転々之をして上下せしむる者は西洋の器械運動なり。青鬼赤鬼が或は人をきねつき或は人をき、閻魔の庁の厳然たるは竹田の機関なり。鳥雀下りて葡萄を啄み、画工誤って帷幕を□(かか)げんとするに至る者は油絵の展観場にして、突兀として蜃気楼の幻出したるが如きものは新聞縦覧所なり。不知八幡(八幡の薮知らず)は已に其地を開墾されしが、猶ほ面影を此に留め、二見ふたみの浦の夫婦石みょうといわも亦此に湧出し、間の山あいのやまのお杉お玉は来って三弦を弾き、縞さん紺さん花色さん又は大きな「シャッポ」さん其面に小球を投じ以て銭をなげうつに代ふ、亦一の新工夫と謂ふべし。

観場已に数十に過ぎたるも、猶ほ新たに場を設け招牌(しょうはい 看板)を掲げる者数處に及べり、故に各観場の木戸銭は僅に一銭或は一銭五厘に過ぎずと雖ども、我々の如き寒貧生は其の半を観るに及ばずして、懐中已に空竭(くうけん)を告ぐるに至る。其観場の多く看客日に群れを為すを以て、水茶屋も出来、楊弓店も出来、餅なり鮨なり菓子なり甘酒なり、凡百の食物より小児の玩物に至る迄之れをひさぐ者其間に錯雑す。(以下略
朝野新聞 明治10年4月28日
この時期の新聞記事の常で、文飾の流れに任せて誇張に走っているところがある。しかし、「神田佐久間町の草原」が極めて多様な見せ物や出し物、食事どころなどがひしめき始めていた。その賑わいの中で、「秋葉の原」という呼び名がいつしか広まり、定着していったのであろう。その時期は、明治10年代の半ば頃か。
「日文研所蔵地図」を開いて、「秋葉の原」にどのような書き込みがあるかを調べてみたのが、下表である。一部では早くから「秋葉社」と呼ばれていたようだが、陸地測量部や参謀本部作製のような公的な地図には登場しない。

地図名作成者作製年月書き込み
東京全図吉田屋文三郎明治二年初秋空地はまだ無く、町名で埋まる
東京区分全図浅井其青明治11年11月7日御届「鎮火社」
東京全図相良常雄明治12年1月出版「火除神社 秋葉
改正増補 東京区分新図大須賀龍潭明治12年2月19日秋葉社 火除地 花岡丁」
東京近傍図 3陸地測量部明治13年測量「鎮火祠」
東京細図:改正区分宮前謙二明治14年5月30日届「鎮火社」
東京絵図大倉四郎兵衛明治14年6月25日秋葉社 火除地 花岡丁」
五千分の一地図参謀本部明治17年測量「鎮火社 花岡町」
明細改正東京新図井上勝五郎明治18年1月7日御届アキバ社 火除地 花岡丁」
10東京精測新図大村恒七明治23年1月8日出版アキハ社 花□丁」
11実測東京全図金澤良太明治25年「荷物停車場」神田川と水路


上の三田村鳶魚からの引用を続ける。
明治七八年の頃、大和町(現 岩本町2丁目)の雑菓子ぞうがし職人の間に、大変清元が流行はやって、随分凝った連中もあったから、夏の夜の涼風をうて、月のいい時分に、秋葉の原に出て来ては、大得意の喉を聞かせるともなく、夢中になって唄っていた。それがだんだん盛んになると、いつか聞き手も出て来て、果ては群集するようになり、夜の秋葉の原は賑わしくなった。それから気がついた大道芸人が、だんだん昼の秋葉の原を賑わすようになった。曲馬・曲独楽きょくごまなどの高小屋(不詳 立派な小屋の意か)や舞台掛りのものはなかったけれども、葦簀張りに縁台を並べ、鼠木戸ねずみきど正面入口、客が背を丸めて入るから)の設けはなく、三方を開放して千客万来に任せ、一面を囲って楽屋にあて、その前方を演技の場所にしてあった。その構造は演技の種類は違っても、いずれも皆一様な形式であった。出茶屋と同様で雨天には休業である。
日暮には葦簀を巻き寄せ、縁台を積み上げて片付ける。それ故、毎朝開業の度毎に,縁台を並べ葦簀を拡げていた。
昼前から夕刻まで演技が続くが、木戸銭や入場料というものはなく、客も「随意に来て随意に去る」のである。
演技者は群集の去来の機を窺って、投げ銭を要求する。かつ扇子を持って見物の間を回って銭を請求する。それも何程くれろというのではない。穴のある銭一枚、寛永銭・文久銭が多い。五厘の銅貨や天保銭などは甚だ稀に与えられる。もし十銭の札か銀貨でもやると、貰いに来た者が,十銭!と声を掛ける。演技者一同が、ありがとう、と一々お礼をいったものである。
夕方まで一日を秋葉の原で遊んで過ごせるので、ちょっとした食べ物屋が出た。
鮨屋・おでん屋・蠑螺さざえの壺焼といった程度の食物屋も,例の葦簀張りで出店していた。(中略)秋葉の原は火除地だけに、常設の建物が許されない。見世物としては極めて小規模のものでなければならなかったために、結局、辻講釈つじごうしゃくといわれた軍談のほかは、全く大道芸人の占拠する場所になって、日本鉄道会社荷物取扱所創設(明治23年)まで、おおよそ十七八年を賑わしていた。
三田村鳶魚は「大道芸人」という語を厳密に使用し、また強調している。「かっぽれ」を始めた平坊主は純然たる大道芸人で、葦簀張り舞台にさえ立たなかったという。平坊主は明治二年に没したが、大道で生まれたかっぽれは秋葉の原でも盛んに踊られた。
秋葉の原の葭簀の下では、モウ平坊主は故人になって、安楽坊初丸あんらくぼうはつまるの初坊主・太閤の秀吉・けしづらの藤吉など、五六人が元気よく踊っていた。その時分には、まだ梅坊主の名は誰も知ってはいなかった。(中略)このかっぽれの連中に,阿房陀羅経あほだらきょうをやったのもいたように記憶するが、かっぽれと阿房陀羅経は別のもので、秋葉の原の中にも,単に二つ木魚を叩いて阿房陀羅経だけをやるものもあった。 ここまでの三田村鳶魚の引用は前掲中公文庫p40~44から
秋葉の原で行われていた演芸について、三田村鳶魚はもっと様々のことを書いているのだが、引用はこれぐらいにしておく。

晴風は『世渡風俗図会』で描いた人々をどこで見かけたのか、残念ながらまったく書いてくれていない。しかし、『世渡風俗図会』に描かれている大道芸の多くが、秋葉の原でも演じられていることに気づく。おそらく晴風さんもこの原を見物する常連じゃなかっただろうか。なにせ晴風の家と秋葉の原は目と鼻の先だったのだから(既述のように万世橋(眼鏡橋)は筋違御門のところに造られており、それを渡ってすぐのところが旅籠町である)。
東京の町が都市として安定してくるまでの明治30年頃までは、秋葉の原のような原ないし空地が各所に存在していたと考えられる。次節(2)で「佐竹の原」を取りあげる。


  (1・4) ニコライ堂              TOP

次の写真は、明治22年にニコライ堂から写した「秋葉の原」(上部左半分に写っている)。したがって、この写真は、貨物駅の工事がちょうど行われている頃の様子である。

ニコライ堂から見た明治22年1889の「秋葉の原」。神田川が左下から右上へ流れており、手前中央が万世橋(眼鏡橋)。右辺中央に昌平橋が半分だけ見える。そこで神田川はやや左折し、その先に和泉橋がみえる。(写真は、ウィキペディア「秋葉原」より)
筋違橋(ほぼ写真の万世橋の位置にあった、筋違御門の橋)の上流側にあった昌平橋が明治6年の洪水で流されたが、神田川がやや左折する位置に鉄橋が架けられ、それを再び昌平橋と名付けた。それが写真に半分だけ写っている橋で、有料で「橋銭」を明治20年まで徴収した。この昌平橋は明治33年1900に(新)万世橋と改称され、さらに明治36年に、アーチ橋の万世橋に架け替えられた(これが現代の万世橋の位置である)。上の写真の万世橋(眼鏡橋)は、元万世橋と呼ばれたが、明治39年に撤去された。

ニコライ堂は東紅梅町の「ロシア公使館付属地」につくられ、起工は明治17年で竣工は24年であった。(本節末に用意した地図にはその位置を記入してある。
ギリシャ正教会の大聖堂ができるというので、建築中から大評判になったようである。明治21年(1888)8月14日の朝野新聞には皇居を目の下に眺められるというので「猥に登ることを禁じる」という記事が出ている。
ニコライ教会堂 ○神田区駿河台西紅梅町なる同教会堂は、本年中に外部の構造出来する見込にて工事を取急ぎ居れりと。又同会堂頂上の足代(あししろ 足場)に登れば皇居御造営を眼下に瞰(のぞ)むに付、猥に登ることを禁じたる由
ニコライ神父の名前から通称「ニコライ堂」と言われているが、建設中からすでにニコライ堂・ニコライ会堂などの名で呼ばれていたことが分かる。この記事中の「皇居御造営」というのは、江戸城からの改築の工事のことで、同年10月に完成すると新皇居を今後は「宮城 きゅうじょう」と改称した。
次図は「足代」を組んで建築中のニコライ堂の写真であるが、『新聞集成明治編年史7』の「ニコライ会堂頂上から皇城俯瞰」(上引記事)に並べてあるもの(朝野新聞の記事写真ではなく、『明治編年史』を編集する際に「男爵岩崎家所蔵」の写真を使用したものと考えられる)。


上引記事の約一年後、東京日日新聞(明治22年6月15日)が、建築中のニコライ堂に登ってみて、“皇居の中が丸見え”などは余計な心配であるという報告をしている。
ニコライ氏の教会堂 ○先頃駿河台なるニコライ氏の新築教会堂よりは、宮城を一目に見下ろされて 不都合なりなんどの噂さ喧しかりしより、此程社友がわざわざ右の実否を確かめんために教会堂に到り足代に登りて一見せしに、(中略) さて噂に従って畏(おそれ)多くも宮城を拝観し奉るにたちまちその誤れるを見る。宮城は丸の内に在りて濠をめぐれる二重の石垣其間に在るを以て宮殿はこれに蔽はれ只だその屋根を遥に望むのみ、城内の位置は決して見る可らず一目に見下すなんどとは全くの虚言なり。かつ今見たる所にては足代の絶頂にて鐘楼の窓は此より低く四五間を下がれば,その眺望はなほ縮小す可し、前日の風説の如きは全く無用のものなり。世人安心して可なりと(かの社友)来社して物語りき。
なお、ニコライ堂の開堂式は明治24年(1891)3月8日に行われ、東京日日新聞は「巍然たる偉容、帝都を圧す」と記している。関東大震災(大正12年1923)では、鐘楼が倒壊しドームが破壊した。火災の被害もあった。耐震を考慮して改修が昭和4年(1929)までに行われた。第2次大戦の際は、在米のロシア正教会の働きかけなどがあり、東京大空襲などの戦災を免れた。


  (1・5) 秋葉原線              TOP

明治政府は当初から北海道開拓に熱心であり(明治二年に開拓使を設置)、北への鉄道を延ばすことは西へ延ばすのに負けず熱心に行われた。上野-青森間の開通は明治24年1891で、東海道線の新橋-神戸間の開通は明治22年である。明治10年代から行われた日本列島各地の鉄道工事は、その工期の短さに驚く。当時「鉄道熱」という語もあったそうである。

明治前半のわが国の主要な輸出品は絹であり、北関東で生産された絹を横浜へ輸送する鉄道敷設が急がれた。それで、東北方面-高崎-赤羽と南下してきた鉄道は東京西郊を品川に接続され、横浜へつながった(明治18年1885、今のJR京浜東北線である。山手線が環状に完成するのはずっと遅く、上野-神田が結ばれたのが大正14年1925である。ついでに、東京駅が開業したのは大正3年1914)。

東北地方や北関東から東京へ入る乗客と貨物が捌ききれず、上野駅が大混乱となっていた。構内だけでなく牛馬車や大八車、さらに人力車が加わって駅周辺が混雑を極めていた。そのため、貨物の専用取扱駅を「秋葉の原」に設置することになった。秋葉の原と神田川を運河で結び、江戸時代から発達していた水運で貨物を捌く計画である。この貨物線(上野-神田佐久間町河岸間)の認可は明治20年11月に「日本鉄道会社」に下りている。
日本鉄道会社に対して)鉄道局は、人家の密集と交通の頻繁から、蒸気機関車による沿線火災防止のための高架線にすることを条件に許可した。しかし、沿線火災の不安から東京市会はその認可取消を主張し、住民の間にも建設反対運動がひろがったが、その間にも(地平鉄道の)工事がすすめられ、明治23年(1890)11月に秋葉原線として開通した。 『東京百年史』第二巻(東京都 1979 p1054 下線は引用者
「地平鉄道」とは高架鉄道ではない通常の地表に敷設された鉄道のこと。下谷区民は交通危険を訴えて烈しい反対運動を行った。
○日本鉄道会社が上野停車場より神田秋葉原に達する地平鉄道を敷設する事に付ては、是れまで下谷区民中頻りに苦情を唱ふるのみならず、東京市会及び市区改正委員会等にても、其の不利なる旨を具して其筋へ建議したる事ありしが、日本鉄道会社にては俄然先頃より同線路軌道布設に着手し、昼夜を兼ねて工事を取急げる模様なるにぞ、同区民は之を見て非常に激昂し、既に一昨十九日は有志総代として鈴木信仁金枝義惠の両氏が山県総理大臣に面会して縷々其の事情を具陳し、大臣よりも種々懇話ありたる由。朝野新聞 明治23年4月21日 下線は引用者
下谷区民代表が山県有朋・総理大臣と掛け合ったが、政府は敷設許可を出しているのだから山県はむしろ説得にあたったということだろう。
もうひとつ、事例を挙げておく。京橋区治安裁判所で行われた審議で所長・帆足判事の発言。
元来被願人(日本鉄道会社)に於ては、たとえ政府の許可ありたるにもせよ、下谷区三千六百有余人有志者等より廃鉄道の請願書を差出し居り、かつ区会市会等の決議の趣をも知りながら、断りなく工事に取り掛かる等のことは穏かならずと説諭あり 毎日新聞 明治23年5月25日
しかし、日本鉄道会社はかまわず地平鉄道として工事を進め、完成する。
延長1マイル15チェーン1911 m)とす。該線は市街地を通過し道路を横断するを以て、踏切木戸の設置十カ所の多きに及へり。 『日本鉄道史』(上 p728)鉄道大臣官房文書課編 大正10年1921
2㎞足らずの区間に10個所の踏切ができた。当時の人々は馴れぬ踏切に驚いたことであろう。会社は踏切ごとに踏切番をつけた。「下谷の地平鉄道は、踏切ごとに立番の設けも出来、扉等をも取つけ」て明治23年11月1日に試運転が無事行われた(朝野新聞 同年11月5日)。

この「秋葉原線」が完成してもっとも利益を得たのは日本鉄道会社よりも「荷主」たちであったと、なかなか穿った面白い評が出ている。この新聞記事は開通して半年後である。
上野秋葉原間鉄道開通後の結果

○開通の際一時非常に世間の攻撃を蒙りたる同鉄道は、其後頗る好結果を呈し、同線路の開通以来地方より輸送し来りたる貨物、ことに野州薪炭の如き容量の大なるものも、手狭なる上野停車場構内に積み置き貨物取扱上の邪魔物となることなきのみならず、従来牛馬の力を藉りて運搬し高価なる賃銭を拂ひたるものをば神田河岸より舟に積み替へ直ちに本所深川等へ転漕するを得る都合にて、荷主の利益一方ならず、
又東京より各地方に積み送る貨物も同様市内運賃の節減を為し得るを以て市内の問屋も亦便利を感ずること尠からざる由、
されば昨今の不景気なるに拘はらず同社の営業上昨年に比して左程の影響を蒙らざるも此の新線路の開通與りて力ありといはんか、元来同会社が割合に多額の費用を投じ、輿論攻撃の焦点となるを顧みず断然開通の運びに至りたるは、其実会社の利益を図らんが為にあらずして亦唯荷主の便益に注意したる迄なりといへり。
朝野新聞 明治24年4月19日


このようにして、秋葉の原に「日本鉄道会社荷物取扱所」が設けられ、新駅が「秋葉原」と名付けられた。この段階で「秋葉の原」はその短い命を終わったとしてよいであろうが、駅名に使われたため秋葉原という地名は残ることになった。そして、今や「アキバ」は世界中に知れ渡っている。

神田川から「秋葉の原」へ掘割を開削し、上野駅からの貨物線は江戸以来の水運と接続された。右の地図は明治40年(1907)1月の東京郵便局作製で、作図は正確なようである。(この地図の神田川にかかる橋は左から昌平橋、元万世橋、万世橋、和泉橋。明治17年の地図と比べると、昌平橋と万世橋の位置が逆転しているので混乱しそうだが、これで誤りではない。ちょっと上で述べたが、この地図の昌平橋が明治33年に出来たときに、眼鏡橋(万世橋 万代橋)を元万世橋、昌平橋を(新)万世橋と改称した。「番地入東京市神田区全図」、日文研所蔵地図サイトより)。

東京の「市街電車」は明治36年に始まったが、それによって馬車鉄道は速やかに衰退した(明治37年中に消滅した)。この地図に見られるように数年のうちにすでに市街電車網が発達していたことが分かる。
夏目漱石『三四郎』(明治41年)で熊本から出て来た三四郎が,東京で驚いたものの随一に「電車がちんちん鳴るので驚いた」と言っていた。また、与次郎には「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回す」ことを冗談半分に勧められる。




(1)秋葉の原    終      TOP





(2) 佐竹の原


  (2・1) 佐竹氏と佐竹屋敷              TOP

佐竹氏は平安末・鎌倉時代から名の残る源氏の武将である。その後も常陸の有力豪族として存在しつづけ、佐竹義宣のとき豊臣秀吉の小田原征伐に参加して水戸五十五万石の大名となった。関ヶ原の戦の後、家康は出羽国へ国替えを命じ、以後、久保田藩(秋田藩)の大名として過ごす。それの江戸屋敷が、広大な佐竹屋敷である。

この佐竹義宣以外でわたしが佐竹の大名を知っているのは「秋田蘭画」の佐竹義敦(よしあつ、曙山1748~85)である。阿仁銅山の改良のために江戸から平賀源内を呼んだのだが、その際、源内は絵の上手な武士、小田野直武(1749~80)と出会い、直武に洋書の挿絵などを見せて西洋画の初歩を教えた。もともと殿様の佐竹曙山が西洋画に関心を持っており(曙山の写実的な生物画が残っている、ウィキペディアここ)、直武を江戸に出して西洋画の知識を学ばせた。絵画の天分があった直武が『解体新書』の挿絵を受け持たされたことは、有名である(直武は面相筆で原書の図を正確に模写した。右図は『解体新書』の「解体図」より「肺全形」。国会図書館デジタル公開)。
佐竹の殿様が文化的に高い教養と西洋画への関心を持っていたのだが、それを「秋田蘭画」と称するので誤解が生じやすい。残念なことに「秋田蘭画」は秋田地方の風俗・民俗につながりを持っていたわけではない。
秋田蘭画は平賀源内の秋田訪問によってはじまったとしても、奥羽の風土や地域性にけっして深い関係があるわけではない。(中略)西洋画法を研究し,作品を試作したのはたいてい江戸においてであった。また、秋田蘭画は江戸における蘭学や写生は絵画の勃興を基盤として展開したのであるから、それは広義の江戸系洋風画のなかにふくまれる。 成瀬不二雄『江戸の洋風画』小学館1977 p136

佐竹氏の江戸屋敷(上屋敷)は三味線堀を前に控えた下谷七間町に広大な敷地を誇っていた。幕末期の安政二年1855には、この上屋敷に居住する者136名に及んだという(佐竹商店街の歴史」より。このサイトは佐竹屋敷の資料を集めてあり、参考になった。下図「屋敷見取り図」もこのサイトから頂きました。お礼申し上げます)。

   
左図は明治17年参謀本部作図の5千分1地図による佐竹屋敷跡。三味線堀があり、左下隅に「生駒邸」とある。右図は佐竹上屋敷図で、三味線堀や七つ蔵が分かる。また左下隅に「生駒主殿」とある。その上側は、順に「藤堂和泉」、「加藤遠江」、「曲淵甲斐」
明治維新後の版籍奉還は明治二年1869六月十七日であるが、その直前、明治二年三月に佐竹屋敷は火事により全焼してしまった。この時期、治安の緩みがあったのか東京では大火が頻発している。(1)節で述べた火除地・秋葉の原ができるきっかけとなった外神田の火事は同年十二月のことだった。秋田藩財政は瓦解し、佐竹屋敷跡は明治五年に国に上納され、大蔵省の所管となり、その上屋敷跡付近は「竹町」となった。(現在は江東区江東3~4丁目、Google Map に「佐竹上屋敷、佐竹っ原跡」の記載あり

江戸時代に大名たちは江戸に住むことを強制された(参勤交代制で1年ごとに江戸と本国を行き来する)。江戸での居住地として幕府から土地を与えられ屋敷を建てた。幕府にとっては諸大名を全国各地に割拠させないという意味があるが、それだけでなく、江戸の町を建設する都市計画の意味をも持っていたわけである。
佐竹の場合は、広大な土地を2ヶ所もらっており(少なくとも2ヶ所で、しかも時代によって変遷があった)、江戸城に近い方を上屋敷、より郊外の道灌山の所のを下屋敷という(今でいえば、JR西日暮里駅あたり)。この下屋敷は一種の別荘・別邸のような位置づけで使用されていたようだ。
明治になってからの佐竹下屋敷の様子を伝えるつぎのような新聞記事がある。
日暮の里諏訪明神の下佐竹候の邸は、其広きこと三万坪余、当時伐木中にて、人足百人足らず出入けるが、去月廿六日午後二ママごろ、與楽寺(与楽寺)続きの藪中より、大巴蛇ウハバミ顕れ、人足方大に恐怖し、顔色土の如くにて皆狼狽して散乱せり。其中気丈夫なる者、物の蔭より伺ひしに、太さ凡糞桶に過たりとなん。東京日日新聞明治五年四月三日
「日暮の里諏訪明神の」という佐竹下屋敷の紹介が、大時代めいて面白い。「肥たご」より太い大蛇が出て来たというが、当時の新聞記事は読み物風に話を面白く誇張して書くのは珍しくない。今の地理だと「諏訪明神」は西日暮里駅傍の「諏方神社」で現存している。与楽寺(與楽寺)も「六阿弥陀詣」の一つとして知られている寺である(なお、第四巻-25「飴熊の鬮賣」につけたコメント「三橋 みはし」で、黒門広場の三橋脇にあった六阿彌陀・第五の常楽院を紹介しました。なお「東京紅團くれないだん」という大きなサイトにある六阿彌陀詣の詳しい説明がお勧めです)。

小論の冒頭で、神田川と佐久間町・旅籠町のところを切り出した「江戸圖・安政」を示したが(ここ)、その同じ江戸圖に佐竹下屋敷も載っている。下図の「佐竹右京」がそれで、図の右が北。道灌山の裾を流れる小川があるが、現在はほぼその川に沿って山手線・東北新幹線が走っている。西日暮里駅付近である。


現在の地図では開成学園が下屋敷の敷地内に位置し、諏方神社も與楽寺もあるので、なんとか佐竹下屋敷を把握できる(「與、与」に音読みはなく「よらくじ」が正しいが、江戸圖・安政は「こうらくじ」としている)。安政の地図と現代の地図(国土地理院)を並べてみた。

    
安政    現代

左の「安政の地図」では、佐竹屋敷や秋葉の原の形は正確であるが、位置や方角にはいくらか狂いがあるようだ。右の「現代の地図」の佐竹屋敷や秋葉の原については、位置は正確であるが形や大きさはわたしの目分量で描いた。


  (2・2) 高村光雲の大仏              TOP

さて、佐竹上屋敷に話を戻す。
忍藩おしはん(松平氏、下総)の藩邸が三味線堀に接してあって、佐竹上屋敷と向かい合っていた(上で紹介した佐竹上屋敷図の右下隅に「松平下総」とある)。明治8年にすでにその近辺に賑わいがあったことを述べる新聞記事。
下谷三味線堀の旧忍邸中の大神宮を鎮座なし奉る近傍の池を掘りひろめ、新たに神殿を造営して、近日に房州八幡村なる水神宮を勧請せん ことを願立しは、西鳥越町の中西源八というものにて、講中も大勢のよし。大神宮御鎮坐以来は、大そう繁華の地となりしに、水神宮を勧請したなら、猶又どんなになりませうかと、其辺の人が咄しました。 東京曙新聞 明治8年9月7日 下線は引用者
「大神宮」を祀って以来「大そう繁華の地」となったが、ここで更に房州八幡村から水神宮を勧請する計画であるという。この房州八幡村が旧忍藩の「下総」と関連があるのかどうか、確認出来ていない。

続いて、三田村鳶魚の続き。
下谷竹町、三味線堀の脇のところ、秋田候佐竹氏の上屋敷が取り払われて後、広茫を極めた草原で、東側に佐竹の七つ蔵といって、七宇の廃庫が久しく残っていた。その辺は随分淋しく、夜間には全く往来が絶えていた。その佐竹の原、一万六千四百三十二坪の地域は、明治二十三年四月に下谷公園と定められた。この原へ秋葉の原と筋違すじかいを追われた葦簀張り連中が移った。第一に出たのが初坊主等のかっぽれで、一時秋葉の原その儘の景況であった。この原は火除地ではないから、常設の建物が許される。幾分繁昌してくると寄席が出来た。 三田村鳶魚 同前p50
(1)節で引用したが、秋葉の原は「一万二千坪余」としていたから、佐竹の原の方が更に4千坪も広かった。上で述べたように、日暮里の佐竹下屋敷は「三万余坪」もあると東京日日が書いていた。
ついでに、土地の広さの比較のために記しておくが、丸の内は10万8千坪あったという。維新以前は親藩・譜代大名の藩邸が24もあったが、維新後は陸軍の兵営・練兵場となった。都心・丸ノ内に兵営があるのは良くないという観点から、明治23年1890に岩崎弥之助(三菱)に150万円で一括払い下げられた。その跡地はしばらくは「三菱が原」と呼ばれた。

上で述べたように、三味線堀のところの旧忍藩邸跡には大神宮が祀られ、明治8年には「大そう繁華の地」となっていた。おそらく隣接する佐竹の原も同様であったのであろう。
当時下谷西町に住んでいた高村光雲が、佐竹の原に人が集まって出し物を楽しんでいることを知り、佐竹の原に大仏のハリボテを作って、体内巡りをさせる見世物を興行する企てにひと肩入れている。『高村光雲懐古談』によると、明治18年1885の頃となっているが、後述するように明治16、17年とするのが正しい。(明治18年に光雲は34歳である。東京美術学校(美校、後の東京芸術大学)が開校したのは明治22年、光雲が彫刻科の教授として招かれるのは翌23年から。光雲のもとへ美校勤務を求める岡倉天心の要請を伝えに来た使者が、すでに美校にいた竹内久一。既述のように、竹内は清水晴風と少年期からの知り合いである。
私(高村光雲)の住んでいる西町から佐竹の原へは二丁もない。(中略)随分佐竹屋敷は広かったものです。それが取り払われて原となってぼうぼうと雑草が生え,地面はでこぼこして、東京の真中にこんな大きな野原があるかと想う位、蛇や蛙の巣で、人通りも稀で、江戸の繁昌がぶち壊されたままで、そうしてまた明治の新しい時代が形にならない間の変な時でありました。
すると、誰の思いつきであったか。この佐竹の原を利用して、今でいうと一つの遊園地のようなものにしようという考え・・・・・それほど大仕掛けではないが、一寸とした興業地をこしらえようと出願したものがあって、原のある場所へいろいろのものが出来たのであった。まず御定おきまりの活ッ惚か ぽれの小屋が掛る。するとデロレン祭文さいもんが出来る(これは浪花節の元です)。いずれも葦簀張りの小屋掛け。それから借馬、打毬場だきゅうば、吹矢、大弓、その他いろいろの大道商売位のもので、これといって足を止め腰を落ちつけて見る物はない。
『高村光雲懐古談』p243
光雲の家に話に来る工芸関連の心やすい人達、高橋定次郎(鉄筆で筒を刻る)・田中益次郞(蒔絵)・野見長次(果物を張り子で作る)との話の中で、佐竹の原に四丈八尺(14.4m)の大仏を作ることになり、光雲が20分の1の模型を竹や木で作る。大仏胎内を歩いてらせん階段で上がれるように工夫してある。その光雲の模型をもとに仕事師・大工などを使って作り上げた。左官が黒っぽい銅色の漆喰を塗り上げると、立派な大仏が出来上がった。「この大仏に使った材料は、竹と丸太と小舞貫と四分板、それから漆喰だけです」(前掲書 p254 「小舞貫」は小舞を固定するための小角材のことか。竹と割竹を使って曲面を作り、それを土と漆喰で塗り固めたのであろう)。
ある日、私は、遠見からこれを見て、一体どんな容子に見えるものだろうかと思いましたので、上野の山へ行って見ました。 丁度、今の西郷さんのある処が山王山で、そこから見渡すと、右へ筋違にその大仏が見えました。重なり合った町家の屋根から、ずっと空へ抜けて胸から以上出ております。空へ白い雲が掛かって、笊を植えた大きな頭がぬうと聳えている形はなんというていいか甚だ不思議なもの・・・・しかし、立派な大仏の形が悠然と空中へ浮いているところは甚だ雄大・・・・これが上塗りが出来たら更に見直すであろうと、(以下略前掲書p254
なお、西郷さんの銅像は、愛犬を連れて兎狩りに出かける姿で高村光雲作、犬は後藤貞行作。光雲が当時彫刻家として随一であると考えられていたことが分かる。

明治9年(1876)の新聞に、西郷隆盛が郷里鹿児島で数匹の犬をお供に「市中徘徊」している、という記事が載っている。
西郷隆盛先生は相変らず御壮健にて開拓業に意を注がれ、毎日山野に出時(でどき)ありて市中を徘徊される由なるが、髪は散乱したるまゝにて帽子も蒙らず、且つ梭櫚(シュロ)の鼻緒を附たる木履をはき、飛色(鳶色)のやうなる木綿羽織を着用し、二三疋の犬を御供に御連れなさると申すこと。(明治9年5月8日東京曙新聞)
西郷は明治6年に下野し、西南戦争で自死するのは明治10年9月24日。

光雲は西郷隆盛の肖像写真がなかったので顔の表情に苦心したと伝えられている。が、日頃木綿羽織の下駄履きで犬を連れて散歩していたという様子が、生前から東京でも報じられていたのは興味深い。朝敵として死んだ西郷に軍服などを着せて元勲扱いできず浴衣姿にしたともいうが、光雲による銅像の姿は生前に西郷像として一定の支持を得ていたものだったのである。

憲法発布の際の大赦で「逆徒」を解かれ、銅像建設が発案された。宮内省からも500円下賜されたという。銅像を建てる位置が上野の山王台と決まったという報道。
樺山子爵等の依嘱により、美術学校にて制作中なる西郷南州翁の肖像は、種々模様がへの末。翁が兎狩の図と定まり、高村光雲氏木型彫刻に着手したるが、其の建設場所に就ては一旦朝敵となりし翁の事とて、皇城門外も恐多し抔議論ありしが、今回愈々上野の山王台へ建てる事と定まるたるよし、但し像の丈は一丈二尺平服に犬を曳きたる處にて、来る七月比は鋳工の手へ引渡す都合なりと云ふ。(讀賣新聞 明治29年5月15日 強調は原文傍丸)
樺山資紀は銅像建設委員長。除幕式が行われたのは、 明治31年(1898)12月18日であった。西郷未亡人は“似ていない”とか“浴衣姿で散歩などしなかった”など酷評した、などとも伝えられている。



  (2・3) 台風襲来              TOP

大仏は初めの何日かは大変な評判であったが、梅雨から真夏になると客足が落ち、秋口に大暴風雨に見舞われ(実は連続して襲った2つの台風)、漆喰がすべてはがれてしまう。この暴風雨は光雲らの大仏だけでなく、佐竹の原の催し物場や食べ物小屋などありとあるものを吹き飛ばし、潰し去り、もとの荒れ野に戻してしまった。
この大嵐は佐竹の原の中のすべてのものを散々な目に逢わせました。
葦簀張りの小屋など影も形もなくなりました。それがために佐竹の原は忽ちにまた衰微さびれてしまって、これから一賑いという出鼻をたたかれて二度と起ち上がることの出来ないような有様になり、春頃のどんちゃん賑やかだった景気も一と盛り、この大嵐が元で自滅するより外なくなったのでありました。
『高村光雲懐古談』 p258
この「大嵐」が明治17年9月15日のものであることを直接示している新聞記事がある。ちょうどこの嵐から一月後の讀賣新聞である。
佐竹の原
○浅草の奥山(浅草寺の後にあった芝居・見世物小屋などの盛り場)が取払ひになるといふ噂と共に賑はひ出た下谷の佐竹の原は、一しきり奥山よりも人の出が多く、此分で奥山がいよ/\取払ひになったら、皆な爰へ見世物見物の人足が付くで有らうと思ったは大違ひ、同所はスリが沢山立廻り、女の帯を結んだまま切り取ったり片袖を切ったり烈しいスリが多いため、少し身柄有る者は恐れて此處へ立寄らず、其上先月十五日の暴風雨で諸所小屋掛けは破れ大きに諸所が荒れたのでバッタリ人足が寄らず、昨今では白昼こそ乳母や子守が遊び場にすれ、日暮れからは追剥でも出るやうな淋しい所になったので、世話人達は大きに気を揉み、此上は一層規則をよくし諸事に注意して、再び繁昌の地にせんと尽力中の由、一説には四ッ谷の桐座を引くといふ目論見も有る由なり。
讀賣新聞 明治17年10月15日 強調は引用者
浅草の奥山は江戸時代からの古い伝統のある盛り場であったが、佐竹の原は維新以後廃墟と化した大名屋敷の中に突然生まれた野原に自然発生的に生じた盛り場であり、奥山と比べるとガラが悪く同じスリでも雑で乱暴であったらしいことが分かる。興味深く貴重な証言である。おそらく秋葉の原も似たようなものではなかったか。

この大嵐は、二つ連続で襲った台風であることが分かっている。東京を通過したのが明治17年(1884)9月15日と18日である。出典を明示している「防災情報新聞」(NPO法人 防災情報機構)に、次のような記事がある。
明治17年9月)15日と18日、それぞれ連続して台風が日本列島を襲い、全国的に大きな被害が出た。

なかでも15日に上陸した台風は、14日午後に九州西方海上で温帯性低気圧として発生、翌15日になると急激に発達して豪雨と強風を伴った台風となり、紀伊半島に上陸後、本州南東部を横切り、同日夕刻には早くも金華山沖へと抜けた。この影響で、近畿地方から紀伊半島、東海、関東、東北南部にかけての各地が暴風雨に見舞われ大きな被害が出た。

続いて17日、九州に上陸、翌18日、東京付近を通過して銚子沖に去った台風によって、長崎、熊本、福岡など北九州一円に大きな被害が出るなど、暴風雨の影響は関東一円にまで及んだ。

この15日と18日、両日の暴風雨で、特に東京では深川区、芝区及び麻布区(現・港区)、小石川区(現・文京区)に被害が集中、19人死亡、1700戸ほどが全半壊するなど、全被災地で197人死亡、344人負傷。家屋全潰4万4810軒、同半潰3万6818軒、同破損27万2079軒(全被災地被害数は東京市史稿)に達した。
下線は引用者
『高村光雲懐古談』は大正11年(1922)に始めた聞き語りを書き留めたものである(聞き手は高村光太郎・田村松魚)。すなわち佐竹の原の大仏の話は、光雲が38年以前の昔を語っているのである。大仏作製前後の驚くべき精細で正確な記憶と、たまたま「明治18年の頃」(前掲書p242)と述べて語り出したことは、充分許容される誤差範囲に入っていると思う(ただ、正確な年代は「明治16年頃」として語り出すべきであったので、現在でも『高村光雲懐古談』を根拠にして、佐竹の原に大仏作製の年を明治18年としているレポートがある)。


  (2・4) 「佐竹の原」から「竹町」へ              TOP

明治17年の大暴風雨によって佐竹の原の盛り場はいったん荒れた草原に戻ってしまう。しかし、住民たちの努力によって少しずつ「竹町」の生活が形作られていく、人家や飲食店など、そして、やがて商店街が生まれる。
興業物が消えてなくなると、今度は本当の人家がぽつぽつと建ってきたのであります。一軒、二軒と思っているうちに、いつの間にか軒が並んで、肉屋の馬店などが皮切りで、いろいろな下等な飲食店などの店が出来、それからだんだん開けてきて、とうとう竹町という市街まちができて、「佐竹ッ原」といった処も原ではなく、繁昌な町並みとなり、今日では佐竹の原といってもどんな処であったかわからぬようになりました。 『高村光雲懐古談』 p258
本論(2.1)で述べた「佐竹商店街の歴史」(ここ)の中に、佐竹の町内に現存する秋葉神社は、明治18年1月に深川御船蔵前町の秋葉神社から遷座してきたものであることを、讀賣新聞同年1月20日によって示している。 明治19年の初夏には、佐竹の原にすでに商店街ができていて、その商店主たちが「秋葉教会所」の祭りのために「大廻り灯籠」に点火し、店頭へ洋燈ランプを飾って賑わいに努めていたことが分かる。
下谷佐竹原の大廻り灯籠は、一昨二十三日夜より点火し、且つ商人は軒毎に店頭へ洋灯を掲げしに、昨日は同原の秋葉教会所の縁日にて三十五坐の神楽等もありたれば、納涼かたがた参詣せしもの数多ありて、至極賑ひたりと。 朝野新聞 明治19年6月25日
この秋葉教会所は深川から遷座してきた秋葉神社のことであろう。

すでにちょっと述べたが、丸ノ内の陸軍兵営・練兵場などは明治22年に三菱へ払い下げられ、その跡地は原野と化し、「三菱が原」と呼ばれていた。次は明治24年(1891)5月の新聞記事である。
丸ノ内なる陸軍部内に係る諸建物は市区改正設計の為め、先に岩崎弥太郎氏が一手に払ひ下げを為して悉く之を取毀ちたれば、数寄屋橋内より龍ノ口辺まで一目に見渡すべき程の一大原野と変じたれば、諸官省へ出仕の官吏退散後は往来の者も少なく殊に夜分の如きは四辺寂としてなんとなく者凄く婦女子は到底通行も成り難き有様とないたり、従来丸ノ内は宮城に接し居れば、葭子張よしずばりの掛茶屋等は一切禁止しありしに此度之れを許したるものと見え、一両日前より馬場先門外を始め通り筋の角へ右の掛茶屋を設けたれば暑中に向ひ往来の人が一寸休憩するには最も便利ならんと。 時事新報 明治24年5月28日 下線は引用者
次図は「改正区分東京細図」(明治14年作製 日文研地図より)の丸ノ内部分図で、陸軍兵営などが占めている状況が良く分かる。「龍ノ口」は和田倉門から出た所(現在は丸ノ内一丁目、日本工業倶楽部ビル付近)、数寄屋橋と和田倉門が直線で約1㎞である。馬場先門の辺りに掛け茶屋が出たという。


しかし、「佐竹ヶ原」の評判は直ちに良くなったわけではなかったようで、本所の「津軽ヶ原」や丸の内の「賭博ヶ原」と並べて色々と評判されていたようだ。
下谷佐竹原、本所津軽原は名にし負ふ密淫売の巣窟なるが、茲に賭博ヶ原とでもいふべき一種の怪野をこそ見出したれ、其を何処ぞと聞くに、麹町区呉服橋内なる師団跡にて、同所は已に人民に払下げとなり、建物も疾くに取毀ち、昨今は草のみ我が物顔に生長してゐるを奇貨とし、車夫等が窃かに此叢園中に埋伏し、賭博の手合わせをなし居るより、其所で以て人此原を賭博ヶ原と呼びなすとなん、きくがままを。日本 明治24年8月27日 下線・強調は引用者
「日本」は明治22年2月発刊(社長:陸羯南くがかつなん、編集長:古島こじま一雄)の新聞。「日本」紙に集まったインテリ達が「賭博ヶ原」また「怪野」と呼んだのは、呉服橋から入った「師団跡」というから、上の地図でおよその場所は見当が付く。本所の「津軽ヶ原」は津軽藩の屋敷跡で、現在で言うとJR両国駅の東側で、緑町公園が目印として残っている。その公園と京葉道路までの南北に細長い8000坪ほどの土地であったそうだ。その津軽ヶ原や佐竹ヶ原は「密淫売」で有名であった、と明治24年の「日本」が評しているわけだ。

明治22年(1889)2月11日は帝国憲法発布の日で、青山練兵場へ馬車で進む天皇に対して、東京帝国大学の学生らが「万歳」をはじめて試みた。それまでは集団で敬意を表す方式が「最敬礼をする」以外に無く、英仏などの例に倣って発声する方式など各方面で工夫したという。なお、千葉県の学生の中で、天皇の通路に花を撒くという案もあったという(東京日日新聞同年2月11日)。
西洋諸国に於ては其至尊の市街を御通れん相成るときは発声して萬歳を祝すること一般の例にて、既に我国に於ても往古は御通輦の際に声を発して敬愛の祝意を表するの風習もありたる由なれど、(中略)来る十一日御通輦の際には、彼の英国に於てホウレ-/\/\と称して、陛下の萬歳を祝するが如く、なんとか発声して奉祝の意を表する事をも許可せんとするの内議ありたりと云へば、多分古例に依て許可さるゝならん。内外商業新聞 明治22年2月8日
なお、当日は「紀元節の歌」(雲に聳ゆる高千穂の・・・)が府下各小学生によって唄われた。「君が代」案も有力だったが選ばれなかった。「君が代」が国歌として正式に決定したのは明治26年8月12日のこと。
こういう史実を並べてみると、この時期、時代の流れが転じようとしつつあるのを感じる。(なお、当日朝、永田町の官邸を出ようとした森有礼・文部大臣が刺殺されるという凶事が起こった。刺客西野文太郎(25)は、かつて森有礼が伊勢神宮で御簾をステッキで持ち上げた振る舞いを「不敬」として激怒していたという。西野はその場で文部官に仕込み杖で首を切られ即死した。

わが佐竹下屋敷に結びつく、次のようなこの時期の新聞記事を見出すこともできる。
道灌山の虫
○夏草の露深うなりて夕暮よりは鈴虫松虫すだき、己がさまざま哀れに啼く、本年は虫聞きに行く人稀にして、虫捕に行く人多しとかや。「まくり手に鈴虫探す浅茅あさぢかな」それとは似て非なり。
東京日日新聞 明治25年7月26日
もう一つ、「諏訪の台」は(2.1)で引用した「諏訪明神」のある台地をいうのだろう。
府下日暮里村にある諏訪の台は千住近傍より埼玉地方を瞰下かんかし、眺望最も絶佳なる處なるが、最近は全く納涼客の杖を曳く者なかりしが、本年は残暑の強き為めか、虫聞きを兼ね納涼に赴くもの多き由にて、之れが為め掛茶屋両三軒もありて昨今夕涼は中々の賑ひなりと云ふ。 国民新聞 明治25年8月25日
こういう風流趣味を描写する記事には、今のわたしどもには振り仮名がほしい漢字が多数使用される。それも一興として引用した。明治25年(1892)は今から120余年前である。

◇+◇

日清戦争の開戦は明治27年7月25日、「宣戦の詔勅」は同8月2日、その冒頭部。
朕茲に清国に対して戦を宣す。朕が百僚有司はよろしく朕が意を体し、陸上に海面に清国に対して交戦の事に従ひ、以て国家の目的を達するに努力すべし。いやしく国際法もとらざる限り、各々権能に応じて一切の手段を尽すに於て、必ず遺漏なからんむことを期せよ。
官報 明治27年8月2日 原文は漢字カナ文 強調は引用者
「宣戦の詔勅」に国際法遵守をうたっているところに、若い近代国家の初々しさが感じられる。そこに不平等条約をはねかえすための計算があったのは言うまでもない。作文はどのようにでも飾ることができる。山県有朋・第一軍司令官は
敵国は極めて残忍なる性を有する。生擒せいきんとなるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし。
と訓示した。これが、第2次大戦末まで、将兵のみならず多くの日本人が婦女子に至るまで「生きて虜囚の恥を受けず」と盲信して自決を選んだ源となった。日本人の多数は「国際法」というレベルがこの世に存在することを思う事さえ出来なかった。

日清戦争の「将兵」の動員数24万0616人のうち死亡者数1万3488人(5.6%)だが、そのうち戦死が1417人、病死1万1894人、変死(その他ということか)177人。死者のうち病死が88%と圧倒的に多い。病気の種類では多い順に、コレラ(40%)、消化器系疾患(14%)、脚気(14%)、赤痢(12%)など。(これらの死亡者は軍人のなかでの人数。軍人以外に「軍夫」と呼ばれた労務員が約10万人ほども加わっている。我国では、軍馬による運搬があまり行われておらず、人の背と大八車に頼っていた。その軍夫の死者は正確には分からないが約7千人という推計がある。
日清戦争の後、軍馬の改良が重要であることが強く認識されたことを、巻六-23「競馬の手遊ひ賣」」でちょっと触れている。なお、次の(2・5・3)で扱う薩摩屋敷跡に出来た「興農競馬場」は、和式の訓練場だったそうである。また、巻八-55「愉快節の本賣」で、日清戦争の意味に少し触れている。



  (2・5・1) 砲兵工しょうと調練場跡              TOP

明治維新後の大名屋敷の消滅で、新しく生まれようとしている都市・東京のあちこちに「秋葉の原」や「佐竹の原」のような原ができたのである。多くの大名屋敷跡地はまず軍部のものになったようだが、軍の組織そのものが未熟で、手に入れた屋敷跡地を使いこなせずに放置して置いたものもあった。使い道が定まるまでの間は大道芸人達がめざとくそこに目を付けて活動しはじめ、庶民たちの息抜きの場となり、遊び場となった。そのような原はここで取りあげていないものが、まだまだ幾つもあったのであろう。

上で引いた三田村鳶魚の中に「筋違」が出ているが、これは明治五年1872に筋違御門および筋違橋が取り壊された時、かつての筋違御門前の広場「八つ小路」が原っぱとなって残り、しばらく大道芸人たちの集まる広場となっていたのを言うのである(前掲の「明治17年作製五千分の一地図」(ここ)で万世橋(眼鏡橋)の南側が広場になっているのがよく分かる。広い三角形の緑地があったようだ)。

永井荷風『日和下駄』(三田文学 大正3年1914)が、次のように「第八 閑地あきち」を語り出している。
私がまだ中学校へ通っている頃までは東京中には広い閑地が諸処方々にあった。神田三崎町の調練場跡は人殺や首縊くびくくりの噂で夕暮からは誰一人通るものものない恐ろしい処であった。小石川富坂の片側は砲兵工廠の火除地で、樹木の茂った間の凹地くぼちには溝が小川のように美しく流れていた。下谷の佐竹ヶ原、芝の薩摩原さつまっぱらの如き旧諸侯の屋敷跡はすっかり町になってしまった後でも今だに原の名が残されている。 青空文庫による 強調は引用者
荷風の生年は明治11年1879だから、彼が中学校へ通っている頃というのは明治25年前後だろうか。「神田三崎町の調練場跡」と「砲兵工しょう」とは、神田川をはさんで向かい合った土地であった。今の地図で言えばJR中央線をはさんで水道橋駅の南側一帯が陸軍調練場跡、小石川後楽園や東京ドームがあるあたりが砲兵工廠であった。

陸軍練兵所は江戸幕府の武芸講習所などがあった場所を利用したもので、明治23年1890に三菱に払い下げたので、「三崎三座」といわれた劇場ができたり(三崎座は明治24年~、川上座は明治29年~)、日本法律学校(明治22年~、現在の日大法学部)ができたりで、都市開発が図られてきた。荷風の少年時代には、上に引いた通りだったのであろうが、比較的早く「閑地」は消滅した。

次図は、明治14年(1881)の「改正区分 東京細図」という地図から採ったもので、調練場跡と砲兵工廠が分かりやすく示されている(日文研のここ)。青字はこの地図の時期に存在していた地名、赤字はその後にできる地名(この地図「東京細図」に飯田橋は無いが、明治16年の陸地測量部「五千分の一地図」にはある)。


「後楽園」は水戸藩上屋敷に作られた庭園で、版籍奉還の際に新政府に移譲された。陸軍省の所轄となり、東京砲兵工廠(砲兵本廠)の一部として管理された。そこへは明治天皇の行幸や外国人客の参観もあり大事に保存された。岡山藩・池田氏の後楽園と区別するため大正12年(1923)に「小石川後楽園」という名称となり、現在は都立公園として保存されている。荷風が言う「小石川富坂」というのは後楽園の北側の一帯である事が地図の「トミ坂丁」や「石川上富坂丁」などの地名から見当が付くだろう。東京ドームや遊園地をご存じの方は、この砲兵工廠がいかに広い土地であったか、お分かりのことと思う。

砲兵工廠は徳川幕府の大砲製造所にはじまる陸軍の兵器類の製造工場であった。小銃・大砲などや火薬類の製造を行い、射撃場もあった。都心に近い場所であるが煉瓦建ての工場群に煙突が立ち並んで、偉容をほこっていた(右図 ウィキペディア「東京砲兵工廠」による、明治23年1890頃という)。砲兵工廠は関東大震災で大半を焼失し、本格的復旧はあきらめ小倉兵器製造所へ移転することになり、昭和10年1935に移転が完了した。「職業野球」の「後楽園スタヂアム」ができたのは昭和12年。


  (2・5・2) 砲兵工廠の関東大震災  TOP

大正12年(1923)9月1日11時58分の関東大震災では、砲兵工廠の工場内の薬品から早くも「零時三分」に出火したといわれるが(下に引く『大正震災志』内務省)、周辺住宅から猛火の飛び火もすさまじく、工場の大半を焼失した。

この震災のときデマが多発し、新聞号外などもそれを報じ、自警団などによる「朝鮮人虐殺」(最大で数千人の規模の虐殺と考えられている、日本人の誤認虐殺もあった)や、大杉栄など「社会主義者虐殺」なども起こったが、それらはよく知られている。わたしはここでは砲兵工廠に関連するデマについて触れておきたい。というのは、「砲兵工廠が火薬の爆発で焼失した」(右図)や「小石川砲兵工廠から毒ガス発散」などというデマが十分に否定されていないように思うからである。
右図はウィキペディア「関東大震災」にある新聞記事である(大阪朝日新聞の大正12年「9月3日号外」)。書き起こしておく。

 目黒と工廠の火薬爆発 震源地は太平洋にも

  【早川東朝社員 甲府特電】
大阪朝日新聞9月3日号外

▼ 朝鮮人の暴徒が起って横浜、神奈川を経て八王子に向って盛んに火を放ちつつあるのを見た
▼震源地は伊豆大島三原山の噴火と観測されてゐるが 他に太平洋の中央にも震源があるらしい
▼砲兵工廠は火薬の爆発のため全焼し目黒火薬庫も爆発した


東京の新聞社は全滅状態で新聞発行は不可能となったので、記者たちは電話の通じる所までなんとかして移動して、新聞社が生きている所へ電話で記事を送ったのである(「特電」とはその意味)。「東朝」は東京朝日新聞の略語で、この早川記者は中央線づたいに甲府まで達し、そこで大阪朝日新聞へ関東・東京の被害の惨状を伝えたのである。ラジオ放送もなかったこの時代、新聞の「号外」が最も早いニュースだった(ラジオ放送開始は大正14年(1925)3月22日)。

夫(宮本顕治)と共にその実家(福井県)に滞在していた宮本百合子は、「私の覚書」(初出 「女性」大正12年11月号 青空文庫による)で、恐怖を覚えるほどの強い揺れを体験したことを述べている。翌日福井市に出掛けた義兄が戻ってきて「東京はえらいこっちゃ、一日に大地震があった後に大火災で、全滅だと云うこっちゃが」と言って立ったまま号外を朗読したのを聞き、はじめてこの震災の巨大さを知る。

上の「震源地は太平洋にも」という号外記事は、この大地震の震源の位置を定めるのに「測候所」が時間を要している内に、東京では三原山が噴火したのが震源だったらしいという情報が広がり(下で引く和辻哲郎「地異印象記」)、「太平洋の中央にも震源があるらしい」という明らかなデマが号外で広がったことが確かめられる。
大阪朝日新聞の9月2日号には大阪測候所の「観測」として、伊豆半島方面に「新火山が出現したか」というような情報が流されている。
大阪測候所の観測によれば震源地は伊豆半島南部或は太平洋南岸海中の地震帯方面に於る新火山の出現か、休火山の活動開始かであるらしく、海底地震も伴っているようで海嘯の怖れもあるであろうと(原文のママ大朝9月2日 「海嘯」は津波のこと、神戸大学図書館サイトここによる
「大阪測候所の観測」という権威付けで大阪朝日新聞が記事を流せば、皆が信じたであろう。それが更に口伝えでデマとして広がったことは想像できる。大火災の天を蔽う煙を見て「三宅島の噴煙」と信じた心理を和辻哲郎は書き留めている(「地異印象記」)。その恐怖と想像外の天変地異の情報におびえる気持ちを基礎として、「朝鮮人が放火して回っている」とか「囚人が大挙して脱獄した」とか「朝鮮人の集団が多摩川を渡って押しかけてくるそうだ」という恐怖を煽るデマが容易に受け入れられ、広まった。町内ごとに「自警団」が組織され、移動しようとしている人を尋問したり、武器を持って拷問・虐殺したりすることが各所でおこった。恐怖に上げ底された「正義感」が働いているので、民衆の暴力沙汰はとどめようもなかった。

講談社が関東大震災のわずか1ヶ月後に発行してベストセラーとなった『大正大震災大火災』(いまだ国会図書館はデジタル公開していないが、発行部数が多かったためか、所有している公立図書館は多い。ウィキペディアも作られている)にはデマを集めた節がある(p202~206)。ただし、あまり充実した内容とはいえない。その中に「砲兵工廠が毒瓦斯ガス発散をする」という報を取りあげている。
雑司ヶ谷の高田小学校の校庭に、夜露をしのぐだけの設けをして避難していた人々、午前2時頃である。)警備に任じてゐる土地の青年団の一人が中央に立って「皆さんおきて下さい。小石川の砲兵工廠で毒瓦斯を発散するさうですから、御注意を願ひます。濡手拭で鼻口を蔽ふておく外はあるまいと思ひます」と。大声で知らせてくれた。『大正大震災大火災』p204
住民たちは余震を怖れて小学校校庭に集まっていたのだが、毒ガスに対してはむしろ自宅に戻って戸締まりして籠もっている方が安全ではないかという判断をして、皆が急に家に引き揚げた。結局夜明けまで何事もなかったが、「発散の結果が大したものでなかったのか、或いは何かの誤伝だったのか」。この報はこれで終わっている。

『大正震災志』(上・下)(内務省社会局 大正15年1926。国会図書館デジタル公開)に砲兵工廠の火災の様子が記録してある。
此区(小石川区)にても亦1日午後零時三分、新諏訪町四及砲兵工廠の西北隅工場より火を発し、風速十二米の南風に煽られて北進した。工廠にては其自衛隊が極力之を防ぎ、軍隊も来援して防止に力めたので幾分か火流の北進を阻んだが、風勢は午後六時に至りて西南に変じ、本郷元町に向かって吹きつけ、同工廠南半分を焼いて水道橋通にて鎮火した。『大正震災志』上 p354
はじめかなり強い南風で北進していた火勢が夕方からやや西寄りの風に変わり、火勢は本郷区方向へ東進したが水道橋通りで止まった。ただし、本郷側はすでに残る所なく焼け野原となっていた。これが、国・内務省が記録した砲兵工廠の火災である。

田中貢太郎『貢太郎見聞録』(大阪毎日新聞 大正15年1926 国会図書館デジタル公開)の中に震災関連としては「変災序記」と「死体の匂ひ」の2篇が収められている。前者は大地震の自宅付近での体験談のみであるが、後者はそれに加えて、9月3日に東京駅から被服廠跡までを見て歩いた記録が含まれている。
「死体の匂ひ」から、砲兵工廠の焼ける様子が分かる所を引く。
 大砲を撃つやうな音が時折聞えだした。火事だ火事だといふ声が人びとの口から漏れるやうになった。牛込の下宿から私の家の安否を気使ふて来てくれた若い友達は、砲兵工廠が焼けてゐると云った。私はその友達と一緒に電車通を伝通院前へと往った。渦を捲いてゐる人波の中には、蒲団などを蓋の上にまで乱雑に積みあげた箱車を数人の男女で押してゐる者、台八車に箪笥や風呂敷包の類を積んでゐる者、湯巻と襦袢の肌に嬰児を負ぶって小さな小供の手を曳いてゐる者、衣類の入った箪笥の引抽を肩にした者、シャツ一枚で金庫を提げた者、畳を担いだ者、猫のやうな老婆を負ぶった者、頭を血みどろにした若い男を横抱きにした者、さうした人達が眼先が暗んでゐるやうに紛紛として歩いてゐた。その人達は頭髪を見なければ両性の区別がつかなかった。
 砲兵工廠は火になってゐた。春日町の方へと曲って行く電車線路の曲り角から、その一部の建物の屋根の青い焔を立てて燃えてゐるのが見られた。私達は安藤坂をおりて行った。砲兵工廠の火は江戸川縁にかけて立ち並んだ人家を包んで燃えてゐた。私達はその江戸川縁を左に折れて往った。街路に沿うた方の家だけは地震に屋根瓦を震ひ落され、または檐を破られて傾きかけたままの姿を見せてゐた。小さな橋の袂に一台のポンプがゐて、川の泥水にゴム管を浸してそれを注いでゐたが、すこしの効力があるとも思はれなかった。
 砲兵工廠の市兵衛河岸に寄った方の三層の建物に新しく火がかかってゐた。その火の中から爆弾の音のやうな音が続けさまに起こった。私達は甲武線の汽車の線路に這ひあがった。神田方面から飯田町にかけて一めんの火の海となり、強い風がその焔を煽って吹き付けてゐた。(以下略 「死体の匂ひ」p329~330 、「甲武線」は現在の中央線、下線は引用者
多くの人が、火の中から聞こえてくる爆発音は大砲か爆弾の破裂音であろうと考えた。和辻哲郎は次のように書き残している。
 自分はまた様子を探りに通りの方へ出た。そこで誰に聞いたか忘れたが、南の方のは目黒の火薬庫の爆発の煙であり、東北の方のは砲兵工廠の爆発の煙であるという説明をきいた。後日になってこの両者の爆発はいずれも嘘であると解ったが、このときには目黒の火薬庫の爆発をいきなり信じた。それは大島の爆発よりもよほど合理的に思えた。なるほど大島の煙があんなに早く来るはずはない、自分の無知のために一里先の煙を三十里先の煙と間違えたのだと思った。砲兵工廠の方はあの新しい入道雲に気づいた後に爆音を聞いたように思ったので、少し腑に落ちないところもあったが、結局それも信じた。こうして一時間ぐらいはこの説明に満足していたのである。 「地異印象記」青空文庫による
田中貢太郎も和辻哲郎も大火災の中に爆発音をくり返し聞いたことを証言している。目黒の火薬庫にも砲兵工廠にも火薬や爆弾が在ったであろうから、それらの爆発がなかったとは言い切れないが、大爆発を起こして砲兵工廠や火薬庫が全滅したなどということはなかった。
この問題について、先の『大正震災志』(内務省)は深く追求していて興味深い。「第二篇東京市 第二出火」で、出火の原因となる化学薬品や出火しやすい物質などを大島義清(工学博士)の論文を引用する形で、論じている。様々の発火・爆発の原因となる薬品・ボンベなどを挙げたあとで、都市ガスについて注目している。
火災後一日以上も経過した後路上から突然爆発して近傍の土砂を吹き上げた例も尠くないが、筆者の目撃したもので其の近傍の人は爆弾と騒いだものゝ実は地下の瓦斯管の爆発であったものが沢山ある。『大正震災志』上 p325
大地震の後、たとえ家庭で元栓を閉めていてもガス漏れに引火するなどの現象が考えられること、また、ガス爆発が起こるとそれが連鎖的に広がる様子があたかも「故意にするものがある様に見へる事になるらしく、疑念を興すのも無理はないと思ふ」と指摘し、詳細に論じている。


この一面黒っぽく写った写真は、関東大震災直後の砲兵工廠と広茫たる本郷の焼け跡、左下に神田川が少し見えている航空写真である。左上に半分だけ砲兵工廠が見えているのだが、建物群は半焼で残ったものなのであろう。砲兵工廠に沿って右へ延びる道路が『大正震災志』にあった「工廠南半分を焼いて水道橋通にて鎮火した」の「水道橋通り」と思える。
この貴重な飛行機からの写真は『東京府 大正震災誌』(東京府 大正14年1925 国会図書館デジタル公開)にある。写真の説明文には
「火災による被害(其の十)」、
「飛行機より俯瞰した神田方面の焼跡 左方に見えるは砲兵工廠」
とある。

右図は上の写真地域を含む東京市作製の「火災系統図」で、赤色が「焼失地域」、矢印は火勢の進んだ方向を示している。「1后5」は9月1日午後5時。(『東京大正震災誌』(東京市 大正14年1925) 国立図書館がデジタル公開)。
両図を照らし合わせてみると、写真に写っている本郷区の上半分は焼け残っているらしい。神田川にただ一つ見える橋はお茶の水橋であろうか。


  (2・5・3) 有馬屋敷と薩摩屋敷              TOP

慶應義塾の講義の帰りに荷風は友人と共に(これは三田文学に連載する大正2,3年頃のこと)「芝赤羽根の海軍造兵廠の跡」を訪ねているが、これは「有馬候の屋鋪(やしき)跡」で、鉄条網を乗り越えて入った二人は、「大きな池があって、男や子供が大勢釣竿を持ってわいわい騒いでいる意外な景気」に出会う。釣道具や駄菓子やパンなどを売っている親爺もいる。

嘉永三年(1850)「芝三田・二本榎・高輪辺絵図」と、陸軍陸地測量部の明治17年地図(1/5000)を並べて有馬屋敷薩摩屋敷を見て貰う。この二つの屋敷は近い所にあった。
嘉永三年絵図の方位を陸地測量部地図にだいたい合わせている。地図のすぐ右が海辺である。金杉橋は東海道に架かる「公儀橋」(幕府の経費で架け維持した橋、「町橋」に対する)。川は古川で、海までの最後の橋である。この橋は日本橋からほぼ一里(4㎞)で旅人の目安になっていたという。




次図は明治17年(1884)「東京府武蔵国芝区芝公園地近傍」(五千分の1 日文研サイトより)。青字は上の「芝三田・二本榎・高輪辺絵図」の書き込みと同じ。赤字は新たに記入。


増上寺(芝公園)の南側に古川(赤羽川とも)が流れていて、それにかかる赤羽橋と有馬屋敷が浮世絵に描かれている(例えば、広重「芝赤羽橋之図」。この浮世絵は古川の上流を向いた視点で描かれており、近景に赤羽橋があり有馬邸内に白い幟が林立しているのが「水天宮」である。庶民に人気があり塀の外側から賽銭を投げたものだそうだ。それで月1回、5日に邸内に庶民を入れて水天宮参拝を許した。有馬氏は久留米藩であるが、有馬氏に人気があったためであろう、この屋敷を久留米屋敷とは言わず有馬屋敷と言い、その後を「有馬っ原」と言った。それに対して薩摩屋敷とは言うが島津屋敷とは言わない。その跡は「薩摩っ原」と言った)。有馬邸の東側近隣に薩摩屋敷が位置していた。薩摩藩は直接船が着くように海岸近くに藩邸を構え、海から堀割を引いていた。
なお、上掲の明治17年地図の方には、金杉橋の更に海寄りに横浜へ行く鉄道橋が出来ている。

薩摩屋敷は慶応三年(1867)の焼討事件でほぼ全焼し、その跡地は荒れて「薩摩ッ原」と呼ばれるほどだったが、後に農畜産関係の用地となった。育種場と珍しい円形トラックを持った競馬場が出来た。有馬屋敷は明治17年の地図で海軍兵器局となっているが、池や築山はそのまま残っているらしい様子である。永井荷風が『日和下駄』で訪れた大正の頃まで、この池や周囲の林などが残っていたのである。
なお、「采女が原」が第4巻の「栄螺のつぼ焼」に出ていた。


  (2・6) おわりに              TOP

江戸が消えて東京が近代都市として変貌しようとする数十年の間を、「秋葉の原」のような空地に、つかの間生まれた大道芸人が活躍する場に着目して調べてみようと試みた。次の地図には、秋葉の原・ニコライ堂・佐竹屋敷・砲兵工廠などこれまで検討してきた所の多くが登場している。旅籠町は清水晴風の実家の在ったところ、下谷西町は修行中の高村光雲が住んでいた所である。

なお、第四巻-25「飴熊の鬮賣」が常に三橋に店を出してたというので「三橋 みはし」で、黒門広場や山下を扱った。
『高村光雲懐古談』からかなりの分量を引用したコメントに、巻二-22「五百羅漢再建」の「羅漢寺さざえ堂の百観音」がある。


この地図は、明治14年1881の、不忍の池から神田川までの地図(「改正区分 東京細図」、日文研 ここ)をもとにし、青字はこの地図の頃の地名など、赤字は後にできるものです。秋葉の原も佐竹の原もかっぽれが賑わっていた頃ですが、「ニコライ堂」はこれから建設をはじめる頃です。上野駅はまだできておらず、「下寺 したてら」と言われた山下の寺々が廃寺にされて「寺院跡」の列をなしている。「三橋 みはし」で細かく扱いました。今のJR上野駅のところです。

神田川の橋名はこの地図に記入してあるものです。近世以降のこの辺りを検討する場合に、神田川が座標軸としてとても有用であることを改めて認識しました。橋名はその座標値に相当するわけですが、かなり変動するのが玉に瑕ですね。
まとめになりませんが、これで終わりです。




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