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第八巻 71
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  車八百屋

明治十二三年の頃
車臺の利用発達
せさるに先立ちて
車に品物を積
載して横山町
大傳馬町人形
町辺を商ひせし
八百屋此者が
初めなりといふ

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明治12,3年頃というのだから、この車八百屋はずいぶん早かった。

車を利用した物売りを、晴風はいくつか記録している。
太鼓売(巻六-13)、油売(巻六-65)、広目屋(巻八-35)、紙屑買(巻八-61)、大工方(巻八-84)、正助豆(巻八-90)

石角いしずみ春之助「立ん坊盛衰記」(「江戸と東京」1938年12月号掲載)に明治9年1876の数字として、東京には車の総数4万2千余輌、うち人力車2万4千余輌、大八車5272輌とある。

人力車は和泉要助ら3人によるすぐれた発明品で、明治三年1870に東京府の認可を得て営業を始めている(発明者については諸説あり)。その利便性から急速に広まった。明治20~30年代は東京市内で4万輛余で推移し、明治36年の市街電車開通以後、人力車の数は頭打ちとなるが、昭和の初期までは一般の交通手段であった。
インドなど、アジアを中心として海外へも広まった。

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